ナシ族のトンパ文字 – 経済的要求から変容した民族の象徴

『ナシ族のトンパ文字』とは

中国の少数民族ナシ族に伝わる象形文字「トンパ文字」

『ナシ族のトンパ文字』とは、中国雲南省北部から四川省西南部にかけて居住している少数民族ナシ族(納西族)独自の宗教、「トンパ教」に用いられる象形文字のことである。1400種類を超える豊富な語彙数と、それらが今なお継承されていることから「生きている象形文字」ともいわれている。

ナシ族の概要

ナシ族の起源は諸説あるが、現在はトンパ文化研究の第一人者であった方国瑜(1903~1983年)の「古羌人説」が有力とされている。この説によれば、古代中国西北部に居住していた羌人という遊牧民族が、秦の支配から逃れるために様々に散った。羌人に属していた部族の一部は西南へと移り住み、そのひとつが後にナシ族となったという。
ナシ族の現在の総人口は、2010年の調査では約32万人で、その中でも雲南省麗江地区はナシ族の主要居住区となっている。ここは、覇者が晋代の春秋時代(紀元前770年~403年頃)に、四川を越えて更に南下してきたナシ族の祖先と麗江の原住民が交じり合ったために、ナシ族が多く住んでいると推測されている。

トンパ教とは

トンパ教は、伝説では雲南省のチベット族自治州香格里拉(シャングリラ)の白水台で、祖師の「丁巴什羅」が悟りを開き創始したとされる。原始的なシャーマニズムを起源で、祖先・自然崇拝を基本として1,500(2,000とも)を超える神々が存在する多神教である。そこにチベット仏教や漢族仏教、ボン教に道教などの宗教要素も融合しており、実態はとても多元的といえる。また、組織として、寺院や廟といった特定の宗教施設や、集団的信徒や教派を有していない。そのため、基本的な宗教活動は個々の自発性に委ねられている。

トンパ文字は、ナシ族のトンパ(祭司のことで、賢者や教養のある人を意味する)が経典を書く際に用いる象形文字である。そのためトンパは、全ての文字を修得する必要があるが、その難易度は高い。加えてトンパは、祭祀に関することや民族としての全ての知識、降霊術や手工芸なども身に着けなければならないため、最高位である老トンパになるには10数年の修行を要する。つまりトンパになるということは、ナシ族の伝統文化の継承者になるということである。

一方で、トンパ以外のナシ族にとっては、実はトンパ教が中心の生活ではない。冠婚葬祭などで一時的に必要な時を除けば、イスラム教の礼拝のように、必ずしも日常的に熱心な信仰を行っているわけではない。また、ナシ族はトンパ教だけでなく他宗教も信仰しているケースが多い。更には、その時代の政府の方針や外来文化の流入の影響を受けたことで、トンパ教の活動は近代になるにつれて先細り、トンパ及び老トンパの数は時代と共に年々減少の一途を辿っていた。トンパが減るということは、トンパ文字が継承されないということである。即ち、ナシ族の伝統文化は消滅の危機にあった。

しかし現在、麗江の町は一見してトンパ文字に溢れている。観光所やサイトではナシ族とトンパ文化の情報がまず最初に出てくるなど、今や麗江を支える重要な観光資源となっている。一体いつ、どのようにして、トンパ文化は省みられ、今日のようになったのか。そこには、近代以降から一部の研究者らによって少しずつ始まった地道な研究と保護。そして、中華人民共和国建国から数十年後に政府主導による観光政策の一環で行われた、伝統の創出ともいえる歴史の再定義が関係していた。

トンパ文化の消長

麗江におけるナシ族の発展

唐朝の頃(618~907年)、雲南の西南地区では唐王朝やチベット族、ペー族(チベット系民族)などが勢力争いをしていたという。この時期にナシ族は、各民族の文化を吸収したことで、麗江は多様な文化が入り混じる場所となった。中でも漢族の文化は、明~清朝(1368~1912年)にかけて麗江の土司(世襲の首長)を務めた木氏が、積極的に取り入れたことでナシ族の文化全体に強い影響を与えた。

1723年からは、「改土帰流」によって、清がそれを更に推進した。改土帰流とは、いわば少数民族に対する同化政策である。清は、土司のように、少数民族の居住地区における有力者の統治を廃止し(改土)、中央から官僚を派遣し直接統治することで(帰流)、辺境までも支配し、漢族としての統一を行った。この政策に対して反乱した民族もあった中で、ナシ族はむしろ寛容な態度であった。というのも、ナシ族は様々な民族から文化を学ぶことで発展してきた。改土帰流も、漢族の先進的な文化を得るという側面では、むしろ利点が多い。また先述の通り、ナシ族は宗教に関して普段からかくあるべしという意識は薄い。結果、1723年に土司は廃止となり(土通判という副知事のような役職は残ったが権力はない)、ナシ文化は漢文化と一層融合するようになった。この時、道教、仏教なども入ったことで、トンパ教はより多元的な信仰形態となったという。

国内外で注目され始めるトンパ文化

漢文化の影響を受け弱まったトンパ文化。トンパ文字に関しては、元々常用ではないことと老トンパの減少も相まって、一般のナシ族にも認知されていない状況となってきた。
一方で1800年代後半から、フランス人宣教師のオーギュスト・デゴダンやイギリス人探検家のウィリアム・ジルをはじめとする海外からの訪問者が、ナシ族の居住地域に滞在し、そこで得た経典や写本を持ち帰ったことで注目を集めるようになっていた。中でも重要な功績を残したのが、アメリカ人研究者のジョセフ・F・ロックである。ロックは1922~1949年にかけて、現地で幾度も長期の調査研究を行い、その成果をレポートや経典の翻訳等で発表したことで、トンパ文字は国際的に広く知られるようになった。なお、1924年にロックがナショナルジオグラフィックで発表したレポートによれば、トンパ文化は急速に失われつつあると述べていた。

ロックと同時期、後に「トンパ文化研究の父」と称される中国人研究者の方国瑜が調査を開始する。ナシ族である方国瑜は、北京大学在学時(1920年代)に教員からトンパ文字について聞かれたことで、自民族が注目されていることを知る。そこから、方国瑜はナシ族の起源や宗教などについての調査と研究を開始。そして、先述した「ナシ族古羌人説」の提唱や、経典文字の字典『納西象形文字譜』を著し、1981年に雲南人民出版社から出版されるなどの功績を残した(1930年代には執筆していたが事情により遅れた)。影響を受けた方国瑜の友人である李震燦も同じく麗江でトンパ文化の調査を行い、1945年には『納西族象形標音文字字典』を出版するなど、中国国内でも研究が進み始めた。

中華人民共和国の建国とトンパ研究の危機

1927年と1946年と二度、国民政府と中国共産党との間で勃発した国共内戦の結果、大陸側を制圧した中国共産党は、その後1949年に毛沢東が建国宣言をし、中華人民共和国が成立された。

国際的な研究となっていたナシ族とトンパ文化だが、建国以後は国の方針もあって、自由な研究を行うことが難しくなり、海外の研究者たちも帰国してしまった。国勢の把握として、1950~60年代前半にかけて3度のナシ族の調査が行われ、経典や関連書物などが詳細に収集・記録されたが、その時の資料群は1980年代に一般公開されるまで秘匿されることとなった。その要因が「文化大革命」である。

建国後の1950年に「中ソ友好同盟相互援助条約」(1980年に失効)を結んだソ連からの支援を得て、国の社会主義路線を推し進めていた毛沢東は、1953~57年にかけて経済発展のために国営工場や農場を築いた。これを「第一次五カ年計画」という。
しかし、1953年にソ連最高指導者のスターリンが死去後、フルシチョフ政権となってからは毛沢東と関係が悪化し支援がなくなる。そのため、1958年からの「第二次五カ年計画」では、独自で工業生産の拡大(特に鉄鋼など)や農業集団化を図ろうとした。その結果、低品質な鉄の製造や飢饉を引き起こすなど失敗に終わる。一連の責任を追及され、実権を失った毛沢東が復権を図ろうと、1960年代後半から主導し、1976年の自身の死去まで実質的に続いた政治運動が文化大革命である(1977年の中国共産党全体会議での終了宣言が公式ではある)。

毛沢東の後に実権を握った劉少奇、鄧小平らを資本主義派と批判し、自身に近しい共産党員や評論家などともに大衆を扇動した。そして、共産党に敵対的とされた人々を次々と殺害・投獄する。その被害者と犠牲者は、およそ数千万人にも及ぶ政治闘争となった(後の1981年の中国共産党全体会議「歴史決議」で、文化大革命は誤りだったと総括した)。
この文化大革命時に行われた、「破四旧」という旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣の破壊活動によって、国中の文化財や文書群などが焼失した。トンパ教も反革命的とみなされ、研究活動は禁止となり、経典をはじめとする資料が数多く処分された。これによりトンパの数も大きく減少し、トンパ文化は危機的状況となった。

再評価されたトンパ文化

研究の再開

文化大革命の終了後、国家再建に向けて政府が動き始める中、トンパ文化が再評価されるようになる。その動きを先導し、トンパ文字・文化の収集・保護に尽力したのが、麗江出身でナシ族の中国共産党員、和万宝(1923~1996年)である。

老トンパが減り、今後トンパ文字の解読がより一層難しくなると考えた和万宝は、残存するトンパ経典などを翻訳し、研究者が自由に活用できるようにするための資料を編纂するために「東巴経翻訳小組」を1979年に設立。資料作成にあたっては、協力者の老トンパが経典を口伝でナシ語に訳し、それを研究員が漢語で対訳した。この作業は1979~1999年にかけて行われ、集めた1,400巻にも及ぶトンパ経典を100巻に纏めて訳し、2001年に出版した。和万宝のこうした活動は、トンパ文化研究の再開と将来にわたっての大きな礎となった。
経典翻訳の最中、1981年には雲南省人民代表委員会の認可がおり、「東巴文化研究室」(1991年に「雲南社会科学院東巴文化研究室」に改称)を設立。現在は、麗江古城の黒龍潭公園内に「麗江市博物院」(麗江東巴文化博物館と併設)としてその機能が残っているとのこと。1995年には、トンパ文化を学ぶ学校を雲南東巴文化博物館に設置。2000年以降はトンパ養成を東巴文化研究所にて行うなど、県政府をあげて文化の保護と伝承に取り組んでいる。

麗江の観光地化

1978年から始まった中国の経済近代化政策、「改革開放」。市場経済の導入や経済特区の設置などをはじめとする政策によって、体制は資本主義へと舵が切られた。その中で麗江は、雲南省政府によって観光業を中心に発展させる方針が示された。

1994年から麗江及び周辺地区では、文化保護法令の発令やユネスコの世界文化遺産への申請計画などが大きく動き始めた。それに伴い、町のインフラ改善や観光施設の建設など、麗江古城を中心に観光地化されるようになった。1996年に麗江を震度7の地震が襲い甚大な被害を及ぼしたが、復興という大義が世界文化遺産に向けた町の再建・改修を更に後押しした。そして、1997年に麗江地区は中国初の世界文化遺産登録となった。これ以降麗江は、国内外から多くの観光客が訪れる観光都市として生まれ変わった。しかし、このことがトンパ文化、とりわけトンパ文字を大きく変容させていく。

「ナシ族の象徴」という新たな伝統

観光都市となった麗江では、トンパ文字を市場経済とも関連した活用、即ち商業化する方向で検討され始めた。これまで一度も、宗教的用途以外で使用されたことがなかったわけではない。1900年以降に何度か、トンパ文字をあしらった工芸品などが作られてはいたが、それらは知識階級や、政治的な場(外交、接待など)への贈答品といったものが主であり、基本的には経典の記録と研究のみに活用されてきた。
限られた者だけが扱え、一般には解読できない、または知られていない存在のトンパ文字を大衆へ宣伝するために、麗江県政府らは新たな文脈を付与し始めた。それは、「ナシ族の象徴」としてのトンパ文字である。

1999年10月に県政府主催のもと麗江で開かれた「中国・麗江国際東巴文化芸術節」。この祭典を通じて、県政府や麗江東巴文化博物館(1984年設立、1995年現在の名に改称)館長の李錫らは、トンパ文字をナシ族の象徴的な文化でアイデンティティであるとして、内外に強く発信した。
祭典では、トンパ文化の学術討論会や、音楽・舞踊などが展示され、麗江県民にトンパ文化の歴史的意義と商業としての重要性が広く伝えられた。経済振興のための商業化については、反対した研究者もいたが、結果的にナシ族のみならず多くの一般層に周知され、多数の投資者が麗江に集うなど、トンパ文化全般が産業化する契機となった。

現在、麗江観光ではナシ族の聖地や所縁の場所などを巡るツアーが定番となっている。古城を中心に、束河古鎮や白沙古鎮、トンパ教の神が宿る霊山「玉龍雪山」。その玉龍雪山を背景に麓で毎日開催される、ナシ族の歴史を舞踊や歌で表現するショー「印象麗江」などが高い評価を受けている。

文字の真正性

トンパ文化は麗江の経済発展に大きく寄与した。現在、麗江古城の至る所でトンパ文字を見ることができ、様々な土産物に用いられている。観光情報では「ナシ族の伝統文化」と必ず表記されている。一連の方針は、文化を生き永らえさせ、居住するナシ族の人々にも経済的な豊かさをもたらした。

その反面、宗教的意味より大衆的な商業性の要素が強くなったトンパ文字は、文字としてその真正性が必ずしも担保されているとは言えなくなった。研究者の高茜氏の調査によれば、トンパ文字を扱う土産物店にて、商品に描かれている文字について伺ったところ、何が書かれているかはわからないという回答であったという。また、いくつか商品を撮影し、研究所で解析依頼をしたところ、文字として正しく書けていない、文字としては正しくとも文になっていない、存在しない文字などといったものが見られた。この高茜氏の調査は、2001~2002年の間に行われたもののため、現在(筆者の麗江撮影が2025年)はまた様相は変わっていると思われる。なお、今回筆者の撮影時にガイドを担当して頂いたナシ族の和紹春氏によれば、今トンパ文字を読み書きできるのは総人口約32万人の内200人程度(しかもほぼ男性)とのこと。

「東巴紙坊」という麗江地区内に複数店舗ある土産物では、ナシ族の伝統技法で製造された東巴紙を使ったノートや雑貨等を販売している。そこでは、トンパ文字の教育を受けたナシ族が、購入者にいくつかの四字熟語から選んだものを、トンパ文字で書いてくれるサービスがある。だが、文字を修得した彼ら彼女らが、トンパ(=伝統文化の継承者)というわけではないようだ。

束河古鎮にある「東巴工作室」では、主宰の和正文氏がデザインしたトンパ文字の商品が購入できる。話を伺うと、トンパとしての活動も行っており、文化継承活動に努めているとのこと。ある意味トンパ文化を、伝統と経済の両側面から見つめている人物と言えるかもしれない。

ちなみに、和紹春氏によれば、ナシ族は元来商売が上手ではなく、地道に特産品や工芸品などを作って売ることが多いとのこと。麗江地区で繁盛していたり客引きの強い店、チェーン店の多くは漢族経営だという(店員でナシ族はいることは多いが)。

終わりに

歴史的意義と市場経済の狭間から垣間見る民族アイデンティティ

自民族でさえ知られざる存在であったトンパ文字。消滅の危機に晒されながらも、ナシ族のシンボルという新たな形で復興し、麗江に大きな経済効果をもたらした。2000年以降は政府が、トンパ教の宗教活動に対して奨励金を出す条例を定めたことで、麗江各地でその活動が見られるようになった。

文化が再評価されたことで、ナシ族自体のイメージもアップした。日本でも2000年代、飲料のパッケージやTシャツのデザインなどに用いられ、一時的に人気を博した。一方で、こうした観光化、大衆化に対しては、文化の破壊という批判があることも避けられない。文化伝承の難しいところである。

見どころ多く、どこを切り取っても絵になる、風光明媚な麗江。訪れる際はぜひ、トンパ文字をある程度修得してから行くと、文化の深淵に近づきながら楽しめるかもしれない。


※追記
2025年11月、当時就任間もない高市早苗首相による「台湾有事」の発言によって、日中関係は悪化の一途を辿っている。この記事を書いている2026年1月現在も撤回はされていない。ここで多くを述べるつもりはないが、大陸と台湾が分離した要因を振り返れば、失言であったと考える。一日でも早く、日中関係が以前のように戻ることを祈る。


主な参考資料

  1. 岡本隆司”近代中国史“, 筑摩書房, 2013年.
  2. 岡本隆司“一冊でわかる中国史”, 河出書房新社, 2020年.
  3. 宮脇淳子”歴史から観る中国の正体“, 徳間書店, 2025年.
  4. 高茜“中国麗江納西族における東巴文字復興運動 : 1990年代以降を中心に”, 国立民族学博物館研究報告, 30巻2号279-326, 2005年12月.
  5. 橋谷弘“中国雲南の観光開発をめぐる研究動向”, 東京経大学会誌, 285巻289-304, 2015年2月.
  6. 和川軍“孤独なパフォーマー: ナシ族トンパ文化継承の研究”, 2015年度京都大学南京大学社会学人類学若手ワークショップ 東アジア若手人文社会科学研究者ワークショップ報告論文集, 36-41, 2016年6月.
  7. 遠藤耕太郎“「木氏歴代宗譜」と納西(Naxi)族・摩梭(Mosuo)人の民間系譜”, アジア民族文化研究, 18巻77-89, 2019年.
  8. 黒澤直道“ナシ族のトンバ文字による家譜”, 東洋学報, 102巻2号, 2020年9月.
  9. 謝曦翎“十八世紀前半における麗江木氏政権の崩壊 : 中甸を手掛かりとして”, 名古屋大学人文学フォーラム, 7巻109-124, 2024年3月.
  10. 黒澤直道“ナシ族トンバ経典『ドゥとスの戦い』について”, アジア・アフリカ地域研究, 國學院雑誌, 124巻11号45-59, 2024年3月.
  11. ナショナルジオグラフィック“第4回トンパ文字とシャングリラ”, 2012年2月22日(アクセス日:2026年1月18日).
  12. 國學院大學“中国奥地の少数民族・ナシ族。その宗教神話から、「共存」を考える”, 2021年2月13日(アクセス日:2026年1月18日).
  13. 國學院大學“隣で知らない言語が話されていても気にならない。少数民族・ナシ族と「共存」”, 2021年2月13日(アクセス日:2026年1月18日).
  14. 中華人民共和国国家民族事務委員会“纳西族”.(アクセス日:2026年1月18日).

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