日本中央の碑 – 本州最北の古代ミステリースポット

『日本中央の碑』とは

坂上田村麻呂が遺したとされる伝説の石碑

日本中央の碑とは、1949年に青森県の当時甲地村(現在の東北村)にあった石文集落近くの赤川上流にある雑木林で、千曳在住の川村種吉氏によって発見された、高さ約1.5mもある楕円形の巨石である。知人から以前、この辺りにいい形の石があると教わっていた川村氏は、親戚らと共に雑木林に入り、目をつけていたその石を持ち上げてみた。すると、「日本中央」と刻まれた巨石が姿を現したという。
この巨石にはとある伝説が秘められているとされている。それは、征夷大将軍として有名な平安時代の武官、坂上田村麻呂が遺した石碑という逸話が伝わっているためである。

歌学書に記された「つぼのいしぶみ」の行方

坂上田村麻呂に関する伝説は、平安時代末期~鎌倉時代初期にかけて、歌人の藤原顕昭によって編纂された歌学書袖中抄に次の内容が記載されている。

陸奥の奥につぼいしぶみあり、日本の果てといへり。但田村将軍征夷之時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付たれば石文と云ふと云へり。

袖中抄』19巻

これによると、日本の東北の果てにあるとされる「つぼのいしぶみ」に、坂上田村麻呂が弓のはず(両端の弦をかける場所)を使って「日本中央」と彫った石があるとのこと。
また、『室町時代物語大成』という御伽草子の全集第9巻に収録された「つぼの碑」では坂上田村麻呂が、陸奥国を支配していた伝説上の人物である悪路王を退治したとき、四~五丈(約12~15m)ほどの大岩に矢尻で「日本中央」と彫ったと描かれている。なお、この石は物語の中で、やがて精霊が宿り、千人が引いても動かない「千引石」として呼ばれるようになっている。
更に、「つぼのいしぶみ」は古代のロマンを感じる存在として、寂蓮法師こと藤原定長や、西行、源頼朝といった平安・鎌倉時代をはじめとする多くの偉人・歌人が歌枕にして和歌を詠っている。

このように、「つぼのいしぶみ」は古くから関心を持たれていたが、一方でその所在については一向に判明していない。そのため、今も様々な論争を生んでいる。その中でも、これが「つぼのいしぶみ」なのではと有力視されているもののひとつが、宮城県多賀城市にある「多賀城碑」である。

国宝「多賀城碑」

宮城県多賀城市にある石碑多賀城碑(建立762年)。江戸時代初め、1658~1672年頃(万治年間~寛文年間頃)に土中から出土したと伝えられている。
この石碑には、かつて存在していた多賀城の創建(724年)や修造(762年)などに関する記録が刻まれており、奈良時代の古代東北を解明する貴重な文献記録として扱われている。そのことから、1998年には国指定の重要文化財、2024年には国宝に指定されている。また、書道史上においても、その重要性から日本各地の古代碑を代表する「日本三古碑」と称されている(残り2つは、群馬県高崎市の多胡碑、栃木県大田原市の那須国造碑及び、京都府宇治市の宇治橋断碑)。ただ、この名数については、文化庁などによる認定ではなく、あくまで広くそう呼ばれているというものである(いずれも国宝、重要文化財などではあるが)。

そんな国宝『多賀城碑』であるが、1892年に東京帝国大学(現在の東京大学)教授、田中義成が『多賀城碑考』で後世の偽作説を提起したことで、18世紀半ばから囁かれていた真贋論争が本格的に始まる。偽作派によれば、多賀城創建が他史料に見られないこと、文字の彫り方や書体などが同時代的ではないことなどから、仙台藩による制作との見解を示した。これ以降長らく偽作説が根強かったが、1960年から宮城県教育委員会主導の下始まった多賀城跡の継続的な発掘調査で明らかとなった事実と、碑文の内容が矛盾しないことから偽作説は覆った。こうした成果もあって、『多賀城碑』は現在国宝として保存されるようになった。

その『多賀城碑』は、発見当初から「つぼのいしぶみ」ではないかと囁かれていた。蝦夷を征討するための陸奥国府拠点であった多賀城の所在地から見つかり、坂上田村麻呂もこの地を訪れたという記録が大きな根拠となっている。江戸時代には、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅路にて『多賀城碑』を訪れたことも注目を集めていた。これにより、全国的に「多賀城碑=つぼのいしぶみ」との認識されるようになっていった。
しかし、坂上田村麻呂の伝説は平安時代初期と見られており、石碑建立と時代が異なる。加えて、「日本中央」と彫られていない。そのため疑問視する声もあり、重要文化財指定の際には、「つぼのいしぶみ」とは無関係として扱われた。
とはいえ、一般的には長らく「多賀城碑=つぼのいしぶみ」と目されてきたが、最初に紹介した『日本中央の碑』が1949年に発見されたことで状況は大きく変わる。

古代青森ミステリーの象徴

一部で囁かれていた南部坪村説

水戸藩の長久保赤水による、1760年からの名所探訪について書かれた紀行文『東奥紀行』。その中で長久保は、「つぼのいしぶみ」は南部領(現在の青森県)の坪村という場所にあり、『多賀城碑』はあくまで多賀城のことを伝える碑文であると述べていた。
この坪村という集落には、807年に坂上田村麻呂が創祀したという千曳神社があり、その神社の伝説に、1000人もの人間が石を引いて神社の下に埋めたという伝説が残されていた。1876年に、明治天皇による東北地方の巡幸の際に発掘調査が行われたが、その時は見つからなかった。しかし、1949年に発見されたことで南部坪村説が大きく話題を呼んだ。

真贋論争の行方

発見後、各所で調査が行われた。しかし現状、この石が「つぼのいしぶみ」だとする鑑定は下されていない。
記録によれば、坂上田村麻呂の征夷は岩手県盛岡市辺りまでで、それより北には及んでいないという。そのため、石碑が青森に存在するのは辻褄が合わない。そして何より、刻まれた「日本中央」の字形があまりに粗末で、外観も年代を感じないように見える。こうした理由などから偽作だとする声がある。また、このことから一部では、千曳神社の由緒に対しても疑問視されている。
一方で、同時期に坂上田村麻呂とともに東北での蝦夷征討にあたった文室綿麻呂は、『日本後紀』の記録によれば、811年に都母村という場所に到達していたとある。都母村は現在の青森県上北郡の七戸町辺りとされており、東北町と近い距離にある。そのため、つぼは都母を意味し、日本中央は文室綿麻呂が刻んだのではないかとの意見が出た。
なお、字形の異質さと整然とした外観については、発見後に新聞記者が撮影のために、字の周縁に墨を塗り、それを洗い落とすために馬用タワシで清掃したことで石碑が必要以上に綺麗になってしまったという。

日本中央が意味するところ

そもそも、なぜ本州最北の青森が日本中央なのか。諸説あるがそのひとつに、ここに書かれた日本は「にほん(にっぽん)」ではなく、「ひのもと」を意味するのではないかという説がある。

青森出身で青森大学教授や学長などを務めた盛田稔氏は、ひのもとは「日出る」を意味し、蝦夷としての中心地であったことを示していると指摘する。加えて、中央政権の側でも、蝦夷の土地自体を日本(ひのもと)と呼称していたため、そこからではないかとの見解も示している(何よりこの時代にはまだ日本という国号はない)。だが、これらの説も確証は得られていない。
ちなみに、盛田氏は『日本中央の碑』について偽作だとしている。盛田氏が地元の地方史家から聞いたところによれば、元は鉄道の敷設時に貨車に乗せてきた石だったが、それを道中の沢に落としてしまったという。とはいえ、この話が真実なのかどうか証明できてはいない。また盛田氏は、この話を他言無用の約束で聞いたが、証言者は故人かつ、盛田氏は著書執筆時に95歳であったため、「死ねばこの事実は永久に謎になってしまうので、故人に詫びつつ記すものである。」として、謂わば暴露した。

文化財指定と施設の整備

真偽不明のまま、『日本中央の碑』は1989年に東北町第1号の有形文化財指定となった。また、当初はほぼ野ざらしの状態で保存されていたが、1995年には、町おこしに向けて、発見地近くに公園と駐車場を整備した『日本中央の碑保存館』を開館。石碑はそちらに安置されることとなった。入場無料ながら、実物の石碑が鑑賞できるほか、当時の資料などが多数閲覧できる。
1997年からは、碑にあやかった「日の本中央まつり」が東北町で毎年9月頃開催されている。五穀豊穣や無病息災を祈願する祭礼や、蝦夷の祭礼などを再現した「たいまつ祭り」などが執り行われている。こうして『日本中央の碑』は、謎に包まれながらも今や町を代表する存在となった。

終わりに

謎が謎のままでもいい(?)伝説の遺物

青森は古代史に関する怪しい事柄が多い。『キリストの墓』や『大石神ピラミッド』はその最たる例であろう。偽書の鑑定が下ったが、『東日流外三郡誌』も一時期話題となった。こうした奇々怪々ともいえる話が生まれ、受容される背景には、東北人はかつて蝦夷として中央政権に「まつろわぬ民」であったがその後征夷され、虐げられてきたという歴史が関係しているとの見方がある。また土地としての閉鎖性など、様々なコンプレックスがある風土の中で、実は古代に誇るべき歴史があったという物語は、ある種干天の慈雨ともいえる。仮にその内容が荒唐無稽であっても、青森にはそれを受け入れられる素地が十分にあったという(斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』集英社、2019年)。
もしかしたら、『日本中央の碑』もそうした地域的コンプレックスを刺激したが故に、現在に至るまでのような扱いになったのかもしれない。余談だが、「東日流外三郡誌」こと『和田家文書』には、『日本中央の碑』が古代にまだ立っていた頃が描かれた絵図があるとのこと。

奇妙奇天烈摩訶不思議な文化財『日本中央の碑』。真偽不明だが古代ロマン溢れる観光資源と施策が多い青森においては、真相を明らかにするのはもうナンセンスなのかもしれない(今も調査は続いていると思うが)。


主な参考資料

  1. 盛田稔“青森県謎解き散歩”,新人物往来社,2012年.
  2. 斉藤光政“戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」“, 集英社, 2019年.
  3. 藤田真一“蕪村の「奥の細道」-「壺碑」のえがき方”, 関西大学国文学会・国文学, 89号18, 2005年2月.
  4. 野崎準“坂上田村麻呂と観音伝説”, 東北学院大学東北文化研究所紀要, 46号1-16, 2014年12月.
  5. 野崎準“千引石と登天石”, 東北学院大学東北文化研究所紀要, 49号17-30, 2017年12月.
  6. デーリー東北デジタル“【北奥羽の地名】坪(七戸町)/県南最古「都母村」が由来”, 2023年1月31日(アクセス日:2026年2月21日).
  7. 国書データベース“日本後紀”, (アクセス日:2026年2月21日).
  8. 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ“東奥紀行”, (アクセス日:2026年2月21日).
  9. 七戸町“旧天間林村 村史上巻 古代”, (アクセス日:2026年2月21日).
  10. 七戸町“七戸町 町史 2巻 近世”, (アクセス日:2026年2月21日).
  11. 七戸町“七戸町 町史 2巻 古代”, (アクセス日:2026年2月21日).
  12. 文化遺産オンライン“袖中抄”, (アクセス日:2026年2月21日).
  13. 文化遺産オンライン“多賀城碑”, (アクセス日:2026年2月21日).
  14. 多賀城市“多賀城碑”, (アクセス日:2026年2月21日).
  15. 東北歴史博物館“多賀城跡 発掘のあゆみ2020”, (アクセス日:2026年2月21日).
  16. 宮城県“多賀城跡調査研究所のあゆみ”, (アクセス日:2026年2月21日).
  17. 盛岡市“志波城跡”, (アクセス日:2026年2月21日).

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