枚方・交野の七夕伝説 – 嘘から変異した広域的な地域伝承

『枚方・交野の七夕伝説』とは

「七夕」に纏わる地名や名所が、大阪北東部に点在するという伝承

枚方・交野の七夕伝説とは、1年に一度、7月7日に天の川で逢瀬を交わす織姫と牽牛(彦星のこと)の伝説「七夕」に縁のある地名や名所が、大阪府の北東部、枚方市と交野市に数多く残されているという伝承である。

交野市の機物神社では、織姫こと天棚機比売大神を祭神としている。枚方市の中山観音寺跡には「牽牛石」という、まるで牛の頭のような巨石がある。元々は牛石という名であったが、交野市と枚方市の間を貫くように流れる天野川を境にして、機物神社と牛石が対岸にあることから関係性が見出され、「牽牛石」と呼ばれるようになった。

天野川と天の川、そして逢合橋

この地域一帯に流れる天野川は、かつては農耕に適したほどの清流に白く輝く川砂、そしてその名前から「天の川」になぞらえられ、平安時代より和歌の歌枕にされるような場所であったという。そのような背景もあり、天野川の存在は機物神社と牽牛石を繋ぐ根拠として広く認識されている。

更には、天野川に架かる交野市の「逢合橋」。その名の通り、織姫と牽牛の逢瀬の場所にちなんだ名称である。

このように、枚方市と交野市には七夕伝説に関連するものが多数点在している。とはいえ、七夕伝説の元は中国神話である。なぜ、いつからこの地域に伝説が生まれたのか。そこには、中世から近世にかけて、この地域でかつて勢力を誇ったある一族の者が創り出した偽文書群と、それらを活用した子孫たち。そして、その偽文書などを参考にした近代の研究者たちと自治体史という、それぞれの立場の者たちの主張が幾重にも重なったことで思わぬ展開を遂げた、虚妄ともいえる生成背景があった。

茄子作村の端野家によって創られた文書群

茄子作村の概要と有力一族・端野家について

現在の大阪府枚方市南部に位置していた、河内国交野郡茄子作村。1645年(正保2年)頃の正保郷帳(幕府による村名や村高をまとめた帳簿)によれば所領構成は、村高626石のうち、516石が旗本である久貝領、残る110石が豊臣家家臣の長井領であったとされる。ところが久貝領は、1691年(元禄4年)に幕府に取り上げられ、1694年(元禄7年)には、小田原藩の大久保家が幕末まで所領となった。

この茄子作村は、由緒ある史跡が数多く残されていることが特徴の一つとして挙げられる。例として、南北朝時代に波多野氏の居城だったとされる土井城や、密教寺院の中山観音寺跡、融通念仏宗の法明上人に縁のある本尊掛松などである。一方で、『枚方市史』における茄子作村に関する記述は、中世では中山観音寺跡について、近世ではいくつかの史跡や村の構成程度とその記述は乏しい。また、それらの記述の多くは文献史料に基づいたものではなく、民族や伝承に偏った考察になっているため正確性は怪しい

その茄子作村にて、氏神である春日神社の宮座(神社の氏子集団の中心的組織)の一座として、近世の頃まで力を持っていた一族のひとつ、端野座の端野家(残るは、清水座・岡市座・桜井座・堀座・奥野座・高橋座の計七座)。その端野家には、総本家彦兵衛家に伝わった『端野己道家文書』と、彦兵衛家の分家である伝兵衛家に伝わった『端野譲太郎文書』と大きく分けて2種類の文書がある。両家の文書には一族の歴史、家系図、由緒書、土地の売買などについて書かれたものが、それぞれ140点残されている。だが、その4分1ほどが、本当かどうか疑わしい由緒書や偽文書で構成されている(これが市史における茄子作村の記述量にも影響している)。

その端野座は、民族学者の高谷重夫氏によると、1800年(寛政12年)には端野家を筆頭に、掃部家・福山家の者たちなどで主に構成されていた。加えて他座では、清水座・奥野座と親しい関係にあったとみられている。

また茄子作村には、宮座とは別に「株」という領主支配の論理があった。株は大久保領の北株南株、長井領の東株の3つで構成され、相互に影響を与えあいながら、村落内の秩序を保っていた。そのうち、北株と東株の庄屋(村役人)は端野家の者がつとめており、当時その勢力は村内でも大きなものであった。なお北株には端野座の他に、清水座・岡市座がいた。南株の庄屋は桜井座の桜井家の者がつとめており、他にも、堀座・奥野座・高橋座で構成されていた。
ちなみに、端野座の掃部家・福山家は南株に所属しており、端野家とは分かれている。これは、管理する株が南北に分かれた後に端野座が組まれた可能性があるため、宮座と株の構成が一致していないのではないかという。

村役人と端野座の関わり

茄子作村の村役人は、1798年(寛政10年)までは、長井領の東株は庄屋1名、年寄2名(1名のときも度々あるが)で構成されることが多かった。一方、大久保領は、古い記録では1687年(貞享4年)から18世紀初め頃まで、南北株それぞれに庄屋が置かれている。また当初は、端野家と桜井家からそれぞれ1名が選出される二頭体制であったが、1708年(宝永5年)以降は一人体制となり、それも近世のほぼ全期を桜井家がつとめている。

年寄も同様に、1832年(天保3年)までは南北株それぞれから1人選出されていた。当初、北株からは端野家の者が多く占めていたのだが、1780年(安永9年)につとめていた端野伝兵衛が病気のため退役願を出し年寄を辞任してからは、端野家が就くことは無くなる。また南株も、1746年から20余年ほどは、端野座の福山家がつとめることが多かった。しかし、1769年(明和6年)の福山吉左衛門を最後に、福山家の者が年寄に就任することはなくなる。これ以降は、南北株ともに端野座の者が就くことはなくなり、次第に茄子作村での端野家の力も衰退していく。

端野座に代わって年寄に就くようになるのが、岡市家と桜井家の者たちであった。特に、桜井家は庄屋もつとめていることから、端野家とは対照的に力を持ち始めていくようになる。そして桜井座は、北株の主導権を端野座から離すために、岡市座と連合するようにもなっていく。それもあって、村役人が桜井座、岡市座(堀座も)で独占されるようになる。

こうして茄子作村の秩序や勢力関係が変容していく中、端野家の地位を保つためには、古来より村落にて影響力を誇っていたことを改めて誇示する必要があった。そこで、同時期に彦兵衛家当主をつとめた人物が、一族や村の由緒・系図などを偽作するようになる。

彦兵衛家当主・賢浄による偽文書作成

端野己道家文書は1766年を境に、残存量が大きく増えるという。端野家に残る文書の4分1ほどが偽文書とみられるということは先述したが、偽作者は恐らくこれ以降の人物ではないかという。そして、それは端野家が衰退の一途を辿る時期と重なる。では、どのような人物が偽作を行ったのか。それは、1766~1769年まで彦兵衛として北株の年寄をつとめ、その後出家した賢浄(1736~1809年)である。

その賢浄の偽作例に、『神社勧請書』という偽文書群がある。これは、1441年(嘉吉元年)9月に、奈良から春日神社を勧請(神仏の霊を別の場所へ分けて祀ること)したという体裁の文書なのだが、その中に賢浄筆跡のものが5点残されている。そこでは、他座を代表して、端野茂左衛門という人物が献金を受領し伝えたといったことが書かれている。

なぜこれが偽文書といえるか。その根拠のひとつに、5点全てに書かれた干支が「丙酉」となっていることが挙げられる。1441年(嘉吉元年)は「辛酉」の年であり、尚且つ「丙酉」という組み合わせはそもそも存在しない。このことから偽文書であることが判る。加えて、古文書の風合いを出すためか、褐色の紙が使用されているのも手が込んでいる。

一族の偽系譜

賢浄は端野家の系譜も新たに創作していた。己道家文書の『古貴書写之事』では、端野家の先祖が、朝廷から交野に土地をもらったことや、土井城主を任されたことなどが書かれている。しかし、その歴史は神功皇后の頃(実在不詳だが日本書紀によれば170~269年)から書かれているため、内容として非現実的なものも含まれている。

『端野名字遺書』では、当地を支配していた端野家先祖が南北朝期の内乱で衰えるも、足利尊氏の代官として復帰し、後に端野家の初代となったという話が書かれている。また、これまで賢浄が作成した文書では、端野家の他に登場するのは、掃部・桜井・堀姓に限られていた。だがこの文書では、更に家臣として奥野座を除く六座の姓の人物が登場する。これには、現行の宮座の面子と文書を一致させることで、確かな内容であることや、端野家が由緒ある家系であることをアピールする狙いがあった。

これらはほんの一例であるが、このようにして賢浄は、村落内における端野家の優位性を示そうとしていた。一方で文書内には、述べたように存在しない干支の組み合わせや、時に無理ある時系列からの歴史など、一目でわかる嘘も入れ込んでいた。このことから、本気で村落中を出し抜こうという意図はなかったと推測される。また偽文書であることが明らかになると重罪になるため、言い逃れが出来るよう、あえて間違いを入れたとみられる。
そして何より、賢浄が存命中の頃は、一族は衰退の兆しを見せつつも、まだ村政への発言権は残されており端野家は踏みとどまっていた。そのため、これらの文書が使われた機会は限定的であったとみられる。また、完成品だけでなく試作品と思しき文書も多く残っていることから、偽文書を趣味的に作成していた側面も見受けられる。
だが賢浄没後、桜井・岡市座などの隆盛が顕著となり、端野家はいよいよ劣勢となっていった。そこで賢浄の息子である浄玄は、父が残した文書を活用するようになっていく。

息子・浄玄による、父の手法を継承した偽文書作成と活用

父の跡を継ぎ出家した浄玄(出家前は弥兵衛という)。しかし、賢浄の頃以上に他座の勢いが増す中で、その地位を維持するためには、親しい清水座・奥野座、掃部家らとの連合をより強固に保つ必要があった。そこで、賢浄が偽文書作成に勤しんでいたことを知っていた浄玄は、残された父の文書からその手法を学び、そして継承して、他座の歴史や由緒に関連する文書までも創作するようになる。

例として、1824年(文政7年)に奥野座の仕来りをまとめた文書や、奥野座・清水座の座席図(年代不詳)などを作成している。1826年(文政9年)には、掃部家の由緒書をなどを作成している。このようにして、連合としての繋がりを偽文書を通じて固めつつ、「その文書を所有する端野座」という上位としての位置づけも行った。

一方で、浄玄の筆跡は波打つような字であまりに癖があった。そのため、賢浄のように他者が記した文書という体裁ではなく、浄玄自身の写本というスタイルでの文書作成を行っていた。他にも、賢浄の文書に浄玄が手を加えたものもあるのだが、先述した賢浄があえて入れた誤りの元号などを、浄玄は一部修正してしまっている。これについて研究者の馬部隆弘氏は、恐らく浄玄は、賢浄の膨大な文書の全容を完全には把握出来ていなかったのではないかという。

また同時期、端野家内でも本家・分家間で対立が顕在化していた。きっかけは、彦兵衛家が土地を寄進した阿弥陀寺について、その仏飯料を管理していた分家・伝兵衛家が、彦兵衛家に渡さず押領したことにある(賢浄はそれを嘆き、当主を辞め出家した)。また1841~1846年頃には、本家の養子・吉三郎の彦兵衛家継承を巡って分家・藤兵衛家と裁判になるほど、確執は深まっていた(最終的に吉三郎が彦兵衛家を継承する)。そうした内外の抗争があったことも、浄玄の偽文書活用の背景にある。

こうして賢浄・浄玄は様々な形で文書を残した。そして、その偽文書群は次世代にまた違った形で活用されるようになる。

一族再興と村史編纂

伝兵衛家当主・端野熊吉の目論見

1868年(明治元年)に廃止となった茄子作村の宮座。更には、1897年(明治30年)に定められた『端野座定録』によれば、彦兵衛家は中絶したとされる。この凋落した端野座及び端野一族を、もう一度振興させたいと考えていた人物がいた。それは、1862年(文久2年)生まれで、明治~昭和にかけて伝兵衛家当主であった端野熊吉である。

熊吉は、自身が宮座復興の旗頭となるには、まずは一族の代表というポジションを獲得する必要があった。そこで熊吉は、彦兵衛家の代理という肩書を得るため画策する。とはいえ、本家不在ということなら、分家の者が代わりをつとめることは一見難しくないと思える。なぜ熊吉はそこに執念を燃やしたか。実は、伝兵衛家は分家与兵衛の更に分家にあたるとみられているからだ。つまり、先述してきた内容とは異なる。では熊吉は、どのようにして伝兵衛家を本家の分家というポジションにまで仕立て上げたのか。

系図を改竄し家格を持ち上げる

初めに熊吉は、『端野氏遺書』という系図を作成した。この文書は、1529年(享禄2年)に初代端野伝兵衛によって作成されたという設定のものである。この中で伝兵衛は、本家の四代目源右衛門の息子に位置付けられている。
しかし、ここで熊吉は、本家初代が茄子作村に居住を始めたとされる暦応(1340年代)から享禄のまでの約190年間で、四世代しかないことに無理があると気付く。そこで後に、賢浄・浄玄が作成した本家系図『端野名字遺書』を、「再写」という形で偽作する。そこでは端野源右衛門を本家5代目にスライドさせ、その下に「分家端野伝兵衛」と記し細工した。また1437年(永享9年)には、源右衛門が記したという体での『端野氏遺書』も作成し、源右衛門が5代目であったと改変した。熊吉はこのように、様々な形で改竄した系図を作成することで、伝兵衛家を本家の又分家ではなく、直接の分家に改竄した。そして、分家伝兵衛の系譜は誕生した。

またこの時、座席としては彦兵衛家と同じく、上座に位置していた他本家の四郎兵衛家・弥左衛門家も中絶したというタイミングが重なる。そのため端野座の上座には、伝兵衛家をはじめとする分家や又分家などが座るという異例のこととなった。こうした様々な要因もあって熊吉は、端野座復興の旗頭という同意を得る。

『茄子作村史』編纂という好機

また同じ頃、熊吉の活動を大きく後押するもう一つの好機が訪れる。それは、大正末期から昭和初期にかけて行われた『茄子作村史』の編纂である。これに熊吉は関わった。

熊吉は、茄子作村にある神社や寺、城跡や塚などと端野一族を結びつけた内容の歴史を数々掲載することで、端野座の象徴ともいえるものを創り出した。時には、寄付金を募って記念碑を建てるなどして顕彰していたという。
こうして創られた史跡は、広く短期間で一般に浸透するようになるのだが、それに貢献したのが、1922年(大正11年)に発行された『大阪府全志』であった。これは『茄子作村史』編纂開始以前から著者の井上正雄によって編纂が進められていたもので、この中にも熊吉作の史跡に関する情報が掲載されている。というのも、熊吉は井上に、自身が創った偽文書を見せており、井上もそれを引用したためである。ちなみに、このような経緯であるにも関わらず熊吉は、『茄子作村史』の末尾にてまるで井上説であるかのように記している。

こうして2つの地誌による後押しが重なった結果、熊吉の創り出した史跡の数々は現代にまで残るようになった。その中のある史跡が、七夕伝説誕生への大きな布石となる。

個人的な理由からの史跡創出

密教寺院跡「中山観音寺跡」

枚方市の観音寺山公園内にある、寺院跡地「中山観音寺跡」。ここが、七夕伝説誕生のひとつの起点となっている。

熊吉による『茄子作村史』では、密教寺院として奈良時代に創建されたが、南北朝時代の戦乱で廃寺になったとされている。更に、摂津国の中山寺は元々ここに所在したことや、境内には牛の形に似た「牛石」「星石」という2つの巨石が残っているといった逸話も掲載されている。
熊吉が中山観音寺跡を取り上げる以前の情報としては、浄玄による『先祖遺書』では、過去にあった寺として「中山寺」が記載されている。だが、由緒までは書かれておらず、特筆した扱いではなかった。『茄子作村史』編纂開始の7年前に、柳田國男を中心に様々な論考者が執筆した機関誌『郷土研究』の、岡市正人氏による調査報告では、昔の寺院跡かもしれないが不詳であるとしている。そのため文中では、中山観音寺という名称は用いておらず、「村の西に当つて中山と云ふ小山あり」という言及に留まっている。加えて、牛石の存在についても触れてはいるが、星石については記されていない。摂津の中山寺の件についても、伝説として紹介しているが移した証拠はないとしている。このように中山観音寺跡については多々懐疑的な意見がみえるが、なぜ熊吉は中山観音寺跡を史跡として顕彰する必要があったのか。

所持する山を史跡にしたかった

馬部氏が端野家子孫の端野寛昭氏に話を伺ったところ、中山観音寺跡周辺に熊吉の所有する山があった。単純に熊吉は、この山を史跡に仕立て上げたかったのではないかという。そのためには、正統な由緒を付与する必要がある。しかし浄玄が残した文書だけでは、名前として「中山寺」が登場するのみで、その一致だけをもって茄子作村から摂津に移したという説を語るには無理がある。そこで熊吉は、付近に「観音原」(現在の香里団地辺り)という小字(市区町村の区画分けにおける小規模な単位)が残っていることから、合体させて「中山観音寺」としたのではないかという。また、摂津中山寺は観音信仰の霊場として知られ、中山観音としても親しまれていることからも名前を関連付けやすい。

天体信仰の跡地に見せかける

境内にあったとされるが他には記述がなく、『茄子作村史』にしかみられない「星石」の存在についても、それを熊吉がわざわざ創り出したのには訳があった。摂津中山寺には年に一度、8月9日に星下りという祭りがある。これは、西国三十三所の観音たちが中山寺に集まるため、この日に参拝すると全ての霊場を参拝したのと同じご利益があるとされている。また、観音の集まる様が、星が降るようであることから星下りと呼ばれている。そうした祭祀があることから、中山観音寺に説得力を持たせるためには、同様に天体に関する信仰の形跡を示す必要があった。
この星石だが、旧『枚方市史』によれば、巨石2つは当初「牛石」と「鏡石」となっていた。だが実際には、鏡石なる石は現存せず、あるのは牛石のみ。そこで熊吉は、鏡石を星石に仕立てることで、少しでも中山観音寺跡と天体の要素を結び付ける目論見があったのではないかという。

こうして自身の山のために創られたはずの由緒と史跡が、後に七夕伝説へと接続するという驚きの展開をみせる。

あらぬ根拠で紡がれていく逸話

牛石=牽牛石説の誕生

旧『枚方市史』にて、枚方市・交野市の天の川伝説について執筆した田中孫三郎氏は、妙見山にある「織女石」の解説に関連して牛石を、「牽牛石と思われるが、中山観音寺境内にあって、偶々牛に形が似ていたから命名されたのでは」との見解を示している。しかし、これが牽牛石誕生へと繋がる。

1959年に中山観音寺跡を発掘した北河内の郷土史家・片山長三氏が交野の考古学愛好家たちと作成した同好会誌『石鏃』(14号、1959年)にて、当時の創立に関する記録や文書がないとしつつも、『茄子作村史』や田中氏の見解をある種都合よく解釈し、「牛石は牽牛石神として崇拝したと伝えられている」と記した。その際根拠として挙げたのが、中山観音寺跡周辺における天体信仰の形跡や、天野川を境に配置されている牛石と機物神社の関係性である。しかし、『茄子作村史』は熊吉作であるため言うに及ばず、田中氏の見解も自身は否定的であった。また、天野川に関する言説も学術的証拠は不十分である。

『枚方市史』にて中山観音寺の項目を執筆した、古代史研究者の井上薫氏は、『茄子作村史』の説に懐疑的な姿勢を見せていた。しかし、『茄子作村史』と『大阪府全志』の同項目に関する内容が一致することから、『枚方市史』にて片山説を用いた(熊吉が関与しているため一致するのは当然といえる)。
更には、河内長野市にある金剛寺の『胎蔵界大灌頂次第』に、「星田神福寺」(かつて織女石の付近にあったとみられる)と「交野郡の観音寺」についての記述を発見する。ここから、「交野の観音寺」とは茄子作村の中山観音寺のことであると断定した。加えて、織女石と牽牛石にも関係があるとした。だがこれも、中山観音寺を生み出したのは熊吉であるため、論理として根本から成立しない。

元々は「はたほこ大明神」と称していた機物神社

織姫を祀っている機物神社だが、その由緒は古くからあったものではないという。そもそも、神社の名称も今のものではなかった。

1679年(延宝7年)の初見史料『河内鑑名所記』によれば、機物神社は元々「はたほこ大明神」と称していた記録が残っている。この「はたほこ」と織姫との間に関係性はない。
機物神社と七夕に接点が見られる最初の記述は、1735年(享保20年)の『五畿内志』に記された、毎年7月7日に行われる「機物神祠」という神事である。しかし実際のところ、当時例祭は1月10日、春祭は2月10日、秋祭は9月10日という日程で、七夕に纏わる神事はなかった。7月7日に開催されるようになるのは、1979年と現代になってからである。
なお、この『五畿内志』の性質として、こじつけや怪しい箇所、誤りがいくつもみられることが指摘されている。基本的には、江戸幕府協力のもと編纂されたため、当時の地誌としては高い正確性を誇っていたのだが、時間・人員の制約や、編纂者・並河誠所による自説普及のための強引な論法などから、不足や独創的な説が各所にみえる。そのため、三浦蘭阪などによって当時から批判されていた。

織田信長をはじめ、明智光秀や豊臣秀吉が機物神社に、織姫こと天棚機比売大神を祀る神社として宛てた印判状も残されているが偽文書とされている。なお片山氏はそれらを、自身が担当した『交野町史』にて肯定的に扱っている。

このようにして、点在するそれらしきものたちの逸話が紡がれ、線で繋がるように伝説が形成されていった。そしてここから更に、行政が伝説を町おこしに活用するようになっていくのだが、その過程でも新たな謂れが誕生していく。

古典文学、近代建築物なども絡めた広範囲な町おこし

『伊勢物語』で描かれた天野川

七夕伝説がこの地域に古来よりあったことを示す際によく引用される『伊勢物語』。天才歌人・在原業平が主人公の一代記であるが、この中に七夕の歌を詠んだエピソードがある。
天野川で酒宴を開いた惟喬親王は、ここで天の川を主題に歌を詠むことを指示した。そこで在原業平は、眼前の天野川と天の川を重ね合わせて、「狩り暮らし 棚機つ女に宿からむ 天の河原に我は来にけり」と詠んだ。このことから、枚方市・交野市などは、当時既に七夕伝説があったとアピールしている。しかし、このエピソードこそまだ七夕伝説がなかったことの証左となっている。

この歌を聴いた惟喬親王は、地上の天野川と天上の天の川をかけた在原業平の発想に意表を突かれ、返歌出来なかったという。もし仮に、伝説が既に親しまれていたのなら、天野川と天の川をかけるというのは、才能ある在原業平の作品としては凡庸なものだろう。惟喬親王も驚くはずがない。よって、このエピソードはむしろ、「古くからは」この地域に七夕伝説がなかったことを示していると馬部氏は述べている。

逢合橋をはじめとする地域の橋梁との関係

天野川に架かる「逢合橋」。現在一般的には、織姫と牽牛の逢瀬の場所として名付けられたとされている。この橋は、1934年に架け替え工事で竣工したという記事が朝日新聞から出ていることから、それ以前より逢合橋と呼称されていたと推測される。しかし1934年より遡るとなると、まだ片山氏らの「牛石=牽牛石」説は生まれていない。つまり、逢合橋という名称には、元々別の由来があったのである。
この名称は、融通念仏宗の法明上人と石清水八幡宮の使者が偶然出会ったという伝承に起因している。1973年発行の『堺市史』によれば、1666年(寛文6年)の『大源山諸仏護念院融通大念仏本寺住持世譜』に、その場所が「交野茄子作合逢茶屋」と記載されている。その逸話が、「牛石=牽牛石」説が出る中でいつしか七夕伝説へとすり替えられていった。

他にも、枚方市にある「かささぎ橋」や「天津橋」が、行政のまとめる七夕伝説の構成要素として加わっているが、これらも近代以降に名付けられたものだという。かささぎ橋に関しては、江戸時代に紀州藩の参勤交代のために毎年架橋したのが起源とされている。その逸話と、天の川で織姫と彦星の橋渡しをするかささぎの群れを重ね合わせて、この名称となった。しかし実は、元となった橋は参勤交代の度に毎度架けていたわけではないことが判明している(馬部隆弘『近世後期における淀川水系の環境変化と天の川橋』枚方市史年報, 10号P31-46, 2007年)。そのため、これも由緒創りの一環といえる。

地域一帯で開催される七夕祭り

それらしく語られることによってより信憑性を獲得した七夕伝説は、昭和から平成にかけて特に浸透した。そして例年7月7日には、地域一体となって祭りが開催される。

交野市にある、北斗七星を神格化した妙見信仰の「星田妙見宮」。この神社にはもう一つ、御神体として「織女石」という巨石が鎮座している。1713年(正徳3年)に刊行されたとされる貝原益軒『南遊紀行』や、1801年(享和元年)に刊行された『河内名所図絵』に石の記述があることから、その頃より祀られていたとみられる。

この神社では古くから、七夕に纏わる祭祀が行われてきたとされているが、1998年からは現在知られる形式での七夕祭りが行われるようになった。

また機物神社でも七夕祭りが行われるなど、地域が七夕一色に染まる。

終わりに

形成過程からも楽しめる稀代の地域伝承

様々な要素が予想だにしない共鳴をして出来上がった枚方・交野の七夕伝説。その始まりは、一族のために記した文書であった。それが子孫によって別の形で活用され、近代の研究者らの主張によって次第に違った方向へと展開して伝説を形成した。2007年7月7日には、枚方・交野両市が主催の『全国七夕サミット』なるものが開催され、中国とも交流を行うなど、今や自他ともに七夕伝説の地として認識されており、地域を象徴するアイデンティティとなっている。

こうした偽史は、研究段階で他の研究者らが説を否定したり、黙殺して取り扱わなかったとしても(今回であれば熊吉の文書のような)、一部の研究者が引用し発表すると、市井の人々にとってそれは、公に認められたものだと捉えてしまう。行政の発信も加わるとなると、なおのこと簡単には覆せない。更に行政というのは時には、仮に誤りであっても地元の歴史に興味を持ってもらうことの方が大事という認識であったりもする。そうなると、もう再検証は難しいだろう。

とはいえ、七夕伝説は虚構でした、これまで発信してきたことは偽りですと全てを反故にしてしまうのも短絡的だろう。何より、この地域にすっかり定着し、多くの人々に親しまれている。その心情を蔑ろにすることもできない。そこで、なぜこのような伝説が生まれ、根付いたかという視点から、地域の歴史を逆噴射してみる歴史教育の機会があれば、郷土に対して客観性を伴って興味を持ってもらえるかもしれない。そのような視点から枚方・交野の歴史を楽しめる施策を、あえて行政が推し進めるというのも面白そうだがどうだろうか(流石にひねくれすぎか)。


※補足
本記事は七夕伝説から逆算する形で、茄子作村の歴史や文書等の作成・形成過程を概覧した。しかし、周辺要素はまだ多数存在する。特に端野家文書の性質や、賢浄・浄玄・熊吉たちの作成意図などはこれが全容ではないが、これ以上紹介すると長大かつ脱線しかねない。そこで本記事では、伝説誕生で重要な中山観音寺跡をひとつの軸に、全体の流れを構成した。そのために、他を大幅に省略したことをここで断っておく。


主な参考資料

  1. “郷土研究2”, 郷土研究社, 1914年.
  2. “枚方の民俗”, 枚方市, 1972年.
  3. 堺市堺市史 続編 第4巻”,堺市, 1973年.
  4. 馬部隆弘“由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に”, 勉誠出版, 2019年.
  5. 馬部隆弘“椿井文書―日本最大級の偽文書”, 中央公論新社, 2020年.
  6. 馬部隆弘“くずし字は読めたほうがよい”researchmap研究ブログ, 2020年.
  7. 石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究“星田妙見宮の織女石/妙見石/影向石(大阪府交野市)”, 2025年1月23日(アクセス日:2025年10月24日).
  8. 枚方市“七夕スポット”, 2025年1月14日(アクセス日:2025年10月24日).
  9. 枚方市“七夕伝説ゆかりのまち・枚方市”, 2025年1月27日(アクセス日:2025年10月24日).
  10. 交野市“地名・伝説”, 2025年9月30日(アクセス日:2025年10月24日).
  11. 交野市星のまち観光協会“機物神社”, (アクセス日:2025年10月24日).
  12. 交野市星のまち観光協会“交野の七夕まつり”, (アクセス日:2025年10月24日).
  13. 機物神社“おりひめ伝説 機物神社”, (アクセス日:2025年10月24日).
  14. 星のまち交野“天の川・七夕伝説 – 星のまち交野”, (アクセス日:2025年10月24日).
  15. 星田妙見宮“星田妙見宮公式HP”, (アクセス日:2025年10月24日).

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