そもそも王仁とは
百済から漢字や儒教をもたらしたとされる人物
王仁とは、4世紀末から5世紀初め、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済から、日本へ『論語』や『千字文』をもたらしたとされる人物。その功績は、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』といった史記などに記述されているが、一方で『千字文』は4世紀には存在しないことや、百済側の史料には記述がないことなどから実在が疑問視されている。そして王仁は最後、藤坂村(今の枚方市)のどこかで亡くなったと伝えられている。
時が経ち、藤坂村には「オニ墓」と呼ばれ、村人に祀られていた自然石があった。その石には歯痛やおこりに効き目があるとの伝承があったという。しかしその石こそが王仁の墓であることが、江戸時代に行われた『五畿内志』という地誌編纂事業の際の現地調査で発見した古文書『王仁墳廟来朝紀』から判明。これにより石碑が建てられることとなった。
しかしこの『王仁墳廟来朝紀』、実は『椿井文書』と呼ばれる後世に創られた偽文書のひとつであったことが、歴史学者 馬部隆弘氏によって本格的に明らかとなった。現在自治体は、偽の伝承であると認識しつつも、「親しまれてきた」という歴史はあることから引き続き大切にしたいとの見解を示している。椿井文書と王仁を巡る一連の歴史については、詳しくは以前私が撮影した記事をご覧頂きたい。
日韓友好のシンボルとなった「伝王仁墓」
地元で大事にされてきた「伝王仁墓」だが、1938年の大阪府指定史跡への登録や、1985年から始まった、王仁の誕生地とされる韓国の霊岩郡と枚方市との友好関係におけるシンボルとなるなど(2008年には友好都市提携を締結)、センシティブな背景の多い日韓関係においても、重要な役割を担うようになっている。そして年に一度、両都市が「伝王仁墓」で交流する行事こそが『博士王仁まつり』である。
博士王仁まつりについて
王仁の顕彰を通じた、地域の密かな日韓友好親善行事
『博士王仁まつり』とは毎年11月はじめに、「伝王仁墓」で行われる「王仁」の顕彰祭である(2024年で41回目を迎えた)。日本からは枚方市長をはじめとする市議会議員や領事館、韓国からは霊岩郡の副郡守をはじめとする代表団が大勢来日し、盛大な日韓交流が閑静な住宅街の中で行われている。




式はまず初めに、チマチョゴリを着た女性たちによる高麗茶の献茶から行われる。




その後は日本と韓国の各来賓による祝辞や挨拶などが粛々と行われる。





その後は花束や香燭代、謝礼などの贈呈、最後に墓の前で献花が行われ閉会となる。







終わりに
偽の地域史が紡いだ、友好親善という日韓の正史
背景に繊細な問題が多い日韓関係。その中で王仁の伝承は、椿井文書がもたらした偽史であったとしても、今や日韓友好親善における拠り所のひとつとなっていることは間違いない。
正統な歴史と「成った」枚方の王仁伝承。『博士王仁まつり』は、歴史の複雑な淡いを垣間見ることができる伝統祭なのかもしれない。

主な参考資料
- Yahooニュース“ 韓国自治体 大阪府枚方市「博士王仁まつり」に代表団派遣へ”, 2024年10月16日(アクセス日:2024年12月13日).
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