『ラームカムヘーン王碑文』とは
スコータイ王朝3代目の王 ラームカムヘーンについて
ラームカムヘーンとは、タイにかつて存在した王朝であるスコータイ朝(1240年頃~1438年)の三代目国王(在位1278~98年頃)である。

タイ人の起源は諸説あるが、現在一般的なものとして中国南西部からインドシナ半島へ南下しながら東南アジア周辺の様々な人種と流動的に交わりつつ、移住してきたと考えられている。その中でスコータイ朝は、タイ族が形成した最初の国家(ムアンという)とされ、特にラームカムヘーン王の時代に支配域を広げ、目覚ましく繁栄したとされている。また言語、美術、経済、宗教などあらゆる分野でも大きく発展した時代である。
こうした背景から現在、タイの歴史はスコータイから始まると言われている。






そして、そのような国家の豊かさと、それをもたらしたラームカムヘーン王の数々の功績を示す文献が『ラームカムヘーン王碑文』である。
タイ文字で綴られた最古の文献『ラームカムヘーン王碑文』
『ラームカムヘーン王碑文』とは、1833年にバンコク王朝第四代ラーマ四世(在位1851~68年)が、即位前であるモンクット王子のときに発見した石碑である。



1292年にラームカムヘーン王によって制作されたとされるこの碑文には、
- 「水中に魚あり、田に稲あり」といったスコータイ朝の豊かさ
- 住民の声に直接耳を傾け、争いごとは公平に裁く
- 王がポークン(父君)として、ルーク(子)たる住民と接する慈愛に満ちた関係性
といった当時の国の様子が刻まれており、歴史的史料として高い重要度を誇る。加えて、刻文されているタイ文字はラームカムヘーン王によって考案されたものだという。
ところがある学者が、この碑文は後世に作られたものではないかと指摘したことで世界に大きな衝撃を与えた。
碑文はいつ、誰が作ったのか
1986年、タイのタムマサート大学の学者ピリヤ・クライルークが発表した論文や、その後同氏が1989年に出版した著書『ラームカムヘーン王碑 美術史的分析』などにて、自身の専門である美術史の観点から、碑文の記述と現地の事実との矛盾や、語彙、正書法などを分析した結果、ラームカムヘーン王碑文は偽作であるとした。そしてその作者は、碑文を発見したラーマ四世と断定した。
また1987年にアメリカの歴史家マイケル・ヴィッカリーが発表した研究報告でも、歴史言語学の観点から、碑文の声調表記が、他の同時代の史料に比べ規則的かつ近代的である点などから、その性質に疑問を呈するとともに、ピリヤの報告を評価した。
こうした一連の発表は、「タイのはじまり」を根幹から揺るがすものでもあったため、大きな論争を巻き起こした。
では、碑文が後世のものとした場合、なぜそれを作る必要があったのか。そこには、産業革命以降に押し寄せるヨーロッパからの脅威と、そこで迫られる国家の近代化という当時の時代背景が深く関係していたとみられる。以下からはラーマ四世説を軸に、碑文の成り立ちや時代との関係性、そして与えた影響などを追っていく。
開国と危機
民族的多様性の国「タイ」
現在のタイ人は、中国系をはじめ、モン系、クメール系、ラーオ系など多様な民族が入り混じっているため、いわゆる「純粋な」タイ人を定義することが難しい。特に、スコータイ朝の次の王朝であるアユタヤ朝(1351~1767年)では、タイを代表する大きな河川のひとつ、チャオプラヤー川下流域のデルタ(三角州)に王都が創りあげられたことで、陸・海共に様々な国との交易が盛んとなり、多くの外来人が移り住むようになった。
そして外来人は、徐々にタイの交易システムそのものにも関与するようになっていった。何故なら、交易を営むにあたって発生する中枢の諸業務(情報・航海・取引・流通等)を、実権を握る王族や貴族だけで行うことは難しかったためである。そのため国内外問わず、能力を持つ人材を必要とした。そこで多く登用されたのが外来人だったという。外来人はその後、政治・社会分野にも関与し権力をもっていき、国家として中核を担う存在となっていった。そして、この地に子孫も残していった。
子孫はまた、様々な民族と交流しながら子孫を残した。このほかに東北・北部はタイ族、南部はマレー系などが多く住んでいた。こうしたこともあって、現在の民族的多様性の基盤がこの時代に形成されたという。



一方で、多様な人種がいるということは、裏を返せば国家、社会として1つの枠組みにまとめ上げるのが困難ということでもある。
そのため、1782年から始まった現王朝であるバンコク朝(チャクリー、ラッタナコーシンともいう)の歴史は、それらをどのように包摂し、国家・国民のアイデンティティを形成して、近代国家「タイ」を創り上げたかの歴史でもある。その契機となったのが、近代から訪れる、ヨーロッパ諸国による植民地化の脅威であった。
東南アジアへと進出するヨーロッパ
バンコク朝の王都があるバンコクは、アユタヤよりチャオプラヤー川下流域に位置していることで海にも近く、交易の観点では更に利便性が良かったという。
実はアユタヤ後期、東南アジアとの貿易を独占しようとしていたヨーロッパとの駆け引きの結果、対等な関係を築くことが出来ず一度関係性は終わっていた。だが、初代の王であるラーマ一世の長子、ラーマ二世(在位1809〜24年)の頃には、産業革命を経たヨーロッパ諸国が東南アジアへ進出するようになってきた。タイもバンコクの立地とそうした時代の転機から、再度対外貿易が盛んとなった。
タイがヨーロッパと最初の条約を結んだのは、ラーマ三世(在位1824~51年)の頃、イギリスであった。1825年、自国の工業製品の市場拡大を求めてバンコクに派遣された東インド会社のヘンリー・バーネイはタイ政府と条約交渉を行い、1826年に二国間の修好通商条約であるバーネイ条約を締結した。
不平等条約による国家変革
バーネイ条約で門戸を開いたタイは、ラーマ四世の時代に更なる転機が訪れる。そのきっかけとなったのが、1855年に同じくイギリスと締結したバウリング条約であった。
バーネイ条約ではイギリスと対等な立場で結ぶことができたが、バウリング条約は治外法権の了承や船幅税の廃止を認めるなど、タイにとっては不平等条約であった。そして、この条約でイギリスが特に重視したのが自由貿易であった。というのも、当時のタイは絶対王政であり、貿易に関しても王室が租税や国内の特産品を独占し、それを海外商人に売却することで富を得ていた。
だが隣国ではビルマがイギリスに併合されたり、アヘン戦争で中国が敗退するなど、ラーマ四世はヨーロッパ列強による圧力の高まりを感じていた。そのため、タイにとって最良の選択は、イギリスの要求を受け入れることであった。この条約によって王室独占貿易は廃止となり、世界経済に包含されるという意味でタイは開国することとなった。その後は1870年までに同様の条約を、アメリカやフランスなど12か国と相次いで締結した。


これらの事態からラーマ四世は、欧米諸国と対等に渡り合うためには国を近代化させる必要があると考えた。そのためには、タイが他国に勝るとも決して劣らない文明国家であることを国内外に誇示しなければいけない。そこで持ち出したのが、スコータイ朝とラームカムヘーン王であった。
理想の故郷「スコータイ」
ラーマ四世が考えた国のあり方
ラーマ四世は即位までの27年間は出家しており、サンスクリット語やパーリ語、仏教といった学問を修めた。また、キリスト教宣教師から英語、ラテン語をはじめ、欧米の先進的な科学、天文学なども学ぶなど、当時のアジアでは西洋文明や社会に通じた知識人であった。
博学なラーマ四世は、タイが植民地化を逃れつつ独立国として全うするために、イギリスのヴィクトリア女王やフランスのナポレオン三世に親書を送るなどをし、立場の対等性を示していた。
一方で、近代国家になるためには自国の多種多様な人間を一つにまとめ上げ、「国家」「国民」という社会単位を形成する必要があると考えた。そのためにはまず、タイにとって振り返るべき歴史、故郷となるものを見出す必要があった。そこでラーマ四世が目をつけたのが、1238年にタイ族最初の国として栄え、文化芸術が花開いた「幸福の夜明け」を意味するスコータイ朝であった。ラーマ四世は、スコータイこそ祖先が創り上げた理想郷であると考えた。そして1833年、ラーマ四世はスコータイ遺跡でラームカムヘーン王碑文を「発見」する※。
ではラーマ四世は、碑文を通してどのような国家となることを計画していたのか。
※バウリング条約締結は1855年、碑文発見は1833年のため前後関係が矛盾している。これについては後述するが、実は元々ラーマ四世による発見の経緯が残っていないため、1833年というのも真実なのかはわからない。





自由で豊かな社会、慈悲深い王権への回帰
碑文には通商の自由、文学の誕生、争い事の公平な裁判など、この時代がいかに自由、平等、博愛という近代的な精神に満ちた社会であったかが書かれている。そして何より、国王がポークン(父的存在)として、ルーク(=子)たる住民の声に直接耳を傾ける関係性であったという。


これらの記述についてピリヤは、国内を従来の絶対王政をはじめとする統治体制から西洋文明に適応させるとともに、誇りあるタイ人として一致団結に導くためなどの根拠として、スコータイ朝が家父長的温情主義政治であったことを碑文に刻んだのではないかとの見解を示している。また、絶対王政ゆえの「国王は神の権化」という神王思想は、実はインドから来たヒンドゥー教の影響で、アユタヤ朝以降に定着したものとみられるため、ラーマ四世はなおのこと、タイ独自の文化が萌芽し、王と住民が慈愛に満ちた関係性であったスコータイに故郷を見出したのではと考えられる。加えてラーマ四世はこの時期、それまで国のタブーであった「国王不可視」を廃止していることからも、スコータイへの回帰が伺える。
タイ語の伝統化
外来人が多く移り住んだアユタヤ朝以降、国内では日常的に30以上の言語が使用されており、一つの共通言語となるものがなかった。そこでラーマ四世は、国の共通言語として「タイ語」を普及させることを計画した。それまでタイ語は、王を中心とした宮廷や権力層による使用が主だったという。だが、バンコク朝からは市井でも広がり始めており絶好のタイミングであったという。
タイ語を公用語として成立させるためには、タイ文字が他より偉大な歴史を持つことを示す必要があった。そこで、碑文がタイ文字の創始者ラームカムヘーン王による刻文とすることで、国内外に当時から固有の文字を有するほどの文化力の高さを持つという伝統を創り出したのではないかという。

まだタイの歴史ではなかったスコータイ
こうしてラーマ四世が碑文に託した「かもしれない」タイの故郷となる歴史と未来への指針は、その後の国王や為政者に活用され、局面ごとに重要な役割を担うようになっていくのだが、それは少し先のことになる。
というのも、「タイの歴史はスコータイから始まる」と先述したが、実は20世紀の初めまではそうではなかった。それまでタイの歴史は、アユタヤ朝から始まり、トンブリー朝、バンコク朝という史観であった。それを象徴するエピソードがある。
1893年、ラーマ五世(在位1868~1910年)は在位25周年記念の宣布で、自身をタイの歴史で第38代目の国王であると述べたという。この38という数字は、アユタヤ朝から数えた代のため、当時はまだスコータイ朝が認識外であったことが伺える。
また、ラームカムヘーン王碑文の存在も、発見後まずは国外へ紹介された。バウリング条約締結時、ラーマ四世はイギリス特使のバウリングへ碑文の一部を英訳したものを送り、アユタヤ以前に優れた文明や国王がいたことを紹介していたという。同様の手紙は1856年に、フランス使節にも送っているが、国内には紹介しておらず、また碑文発見の経緯なども残していないという。こうした初期からの対外意識、発見(1833年)から初紹介(1855年)までの空白期間などが、碑文偽作説を強める一端となっている。
チャクリー改革による国家形成
スコータイ朝がタイの歴史に導入されたのは、ラーマ五世の頃から本格化した国家近代化政策「チャクリー改革」によってであった。このチャクリー改革によって、中央集権型の統治のための省庁再編や、法律の制定、教育・郵便制度などが整えられたと同時に、タイを一つの国家・国民として確立させるためのアイデンティティとなるものの形成が大きく進められた。
1907年にラーマ五世が立ち上げた「歴史俱楽部(ポーラーンカディー・サモ―ソーン)」で、五世は有識者にタイ人の起源や、アユタヤ以前にあった王都をタイ史に組み込むことを要望した。即ち、ラーマ四世同様に、ヨーロッパの文明に勝るとも劣らない歴史を創ることを求めたのである。そこでスコータイ朝が再注目された。
国内でラームカムヘーン王碑文が紹介されたのは1908年であった。ラーマ四世の孫、ワチラーウット皇太子(のちのラーマ六世)がタイ北部を調査旅行し出版した『プラルアン国紀行』で、スコータイという栄光の時代があり、その歴史と伝統を受け継ぐタイ国民に自尊心や誇りを持つよう主張した。その初版巻末に、碑文の第一面が翻字されて掲載されたのが、一般向けの初紹介とされる。
プラルアンとは、スコータイ朝の創設に関わったとされる伝説上の王であるのだが、当時は北部のみで知られる存在だったという。この王を、ワチラーウット皇太子は度々取り上げ、スコータイ朝の歴史に正式に組み込むようになる。文芸に秀でたワチラーウット皇太子は、即位後に自身が制作した戯曲「プラルアン」などで、架空とされるプラルアンをスコータイ朝成立の立役者として取り上げて賞賛するとともに、スコータイを古い歴史と文化を持つ王朝として演出したという。
そして1914年、ラーマ五世の異母弟であるダムロン親王によって出版された『御親筆本王朝年代記』にて、スコータイがタイ族最初の国家として初めて紹介され、スコータイ朝→アユタヤ朝→バンコク朝という、現在まで提唱されている単線史観が生まれた(トンブリー朝は除く)。
このようにして、ラームカムヘーン王碑文が語る理想の時代は、各国王などにも取り上げられ、今やスコータイはタイの出発点として定着するようになった。もし碑文がラーマ四世による創作であれば、ある意味壮大な下ごしらえだったともいえるかもしれない。
そしてスコータイは時に、ナショナリズムを鼓舞する神話のように用いられるようにもなる。
国家危機を救い、革命を支えるスコータイ神話
フランスと武力衝突した「パークナーム事件」
1893年、フランスは当時のラオス地域の領土獲得に向けて、宗主国であったタイに軍事的圧力をかけるために、チャオプラヤー川河口へ侵入し軍艦で封鎖した。その後、両軍が衝突したがタイ側は歯が立たず、結果メコン川左岸の割譲というフランスの要求をのむこととなった。これをパークナーム事件(シャム危機とも)という。

ともすればフランスの植民地となっていたかもしれないこの事態を、タイ政府は国家危機と捉えた。また、この件でラーマ五世は心身ともに目に見えて疲弊し、その不安は王室、市民へも広がり憂慮する声が増えた。その空気感は、1900年代初頭まで充満していたという。この危機に対応したのがダムロン親王であった。
チャクリー改革の実質的な役割を担い、また「タイ歴史学の父」とも評されるダムロン親王は著書や講演などで、ここでスコータイ朝から続く歴史観や民族意識が持ち出した。ダムロン親王は、タイ族は中国から南下しつつ、その度に外部勢力からの侵略や圧迫を退けてきた歴史があったとし、だからこそ今回の危機も一致団結して乗り越えようと唱えることで、国中に広がっていた危機意識を和らげたという。
人民党による立憲革命
ラーマ五世のチャクリー改革当時は、近代化のための制度改革を、専門知識を持つ外国人に依存していた。しかし第一次世界大戦後はタイ人への代替が進み、国造りの新たな人材育成のために学生を欧米に留学生として派遣するようになった。
一方で五世は、数々の宮殿を建設したり、贅沢な生活など浪費を重ねていた。ラーマ六世になるとより顕著となり、国家財政は大きく悪化した。ラーマ六世の弟であるプラチャーティポックこと、ラーマ七世(即位1925~35年)の時代になると、王族内からも前王への批判が噴出し、都市中産階層からは絶対王政自体への不満が出始めた。


国家としては近代化しつつも旧態依然とした絶対王政に対し、海外の先進的な学問や制度を学ぶ留学生たちも憂慮していた。そして、陸軍留学生プレーク・ピブーンソンクラーム、法務省留学生プリ―ディー・パノムヨンらによって、1927年にパリで秘密結社「人民党」が結成された。人民党の目的は立憲革命で、政治体制を立憲君主制へと改変する事であった。そして人民党は、クーデターで革命を実行することを計画する。
同時期、1929年から始まった世界恐慌によってタイ最大の輸出品であったコメ輸出額が大きく下がったことで、政府の収入はもちろん、生産者に至るまで困窮することとなった。国内の経済状況が悪化する中、ラーマ七世は財政再建のため、官庁の統合や官僚らの解雇や減俸を発表した。しかし、この対応は官僚や国民の不満をより招き、絶対王政こそが諸悪の根源とする考えがより広まるようになった。
そうした不満の拡大は人民党の思想を更に正当化させ、国内でも同志が集まるようになった。クーデター計画を具体化する中で、人民党は軍にも接触する。何故なら、軍にも解雇の波が及んだことで、軍独自として立憲革命の機運が高まっていたためである。そして1932年、人民党は陸軍大佐プラヤー・パホンポンパユハセーナー、プラヤー・ソンスラデートらと、共同でクーデターを実行することに合意した。そして同年6月19日から保養地に出かけるラーマ七世の隙を突き、国王不在のバンコクを狙うことを決定する。
同年6月24日早朝、バンコクで軍とともに決起した人民党は、有力貴族である摂政のナコーンサワン親王を人質に、ホアヒンに滞在中のラーマ七世に立憲君主となることを迫った。一方では、プラヤー・パホンが『人民党宣言』を発表し絶対王政を非難した。
クーデターを知ったラーマ七世は、当初は抵抗の姿勢をみせたが、最終的に人民党の要求を受諾する。6月27日にプリ―ディーが起草した臨時憲法に署名したことで、絶対王政は幕を閉じた。

立憲革命後、権力の中枢を王族から軍部を含む官僚に移行させる政治体制が構築される中で、手に入れた権力を正当化するための理論構築に貢献したのが、ルワン・ウィチットワータカーンであった。後に芸術局長や外務大臣を務めた彼は、知識人で戯曲や小説も書くなど才能溢れる人物だった。ウィチットは、ダムロン親王が唱えたスコータイがタイの原初であるという歴史観を継承し、タイ民族の偉大さ、勇敢さを謳い上げる著作を発表した。そうして民族主義を鼓舞しつつ、アユタヤ朝やこれまでのバンコク朝は、他国の影響を受けたことで神王思想(クメール文化の影響とされる)などが入ってしまったとの見解を示した。
そして、国王はスコータイ朝のように神ではなく、父であり、偉大な人物として存在し、政治権力は非王族が掌握するべきであるとの論理を展開することで、人民党による革命運動を正当化した。ここでもまた、権力者によりスコータイが理想郷として持ち出されたのである。そして、この思想に共鳴した人民党設立時のリーダーの一人、ピブーンは1938年に首相となるや、民族主義を前面に押し出した国家統一の政策「ラッタ・ニヨム」(国家信条)を公布する。そこで、これまでシャムやタイなどと呼ばれていた国名を、1939年に正式に「タイ」とし、国民にタイ族の国家であることを認識させた。
失地返還による歓喜の象徴「戦勝記念塔」
ピブーンが高揚させたナショナリズムは、その後の失地回復にも大きな影響を与えた。
パークナーム事件でメコン川を国境に、左岸側をフランスに割譲したタイだったが、その後1904年にはメコン川右岸、1907年にはカンボジア北西部などをフランスに割譲していた。
第二次世界大戦がはじまると、中立を宣言していたタイだが、当初の戦況では枢軸国側が勝利すると考えていた。
その頃イギリスやフランスは、戦線に集中せざるを得ないため、植民地化した東南アジアを保つため、1940年にタイと不可侵条約を締結した。ところが、勢いづくドイツにフランスが敗退したところをタイは見逃さず、当時友好を深め始めていた日本を仲介して、失地の返還を要求した。更にピブーン政権は、これに合わせて「大タイ主義」を打ち出す。この政策は、旧タイ領に住む者でもタイ人と見做し、タイへの入国手続きを免除するものであった(代わりに、タイ語・タイ文化に通じた者となることを条件とした)。こうすることで、失地が元々タイの支配域であることを正当化し、その領域を拡張することを目論んだ。この世論を高めるために、現地では住民による返還デモが行われたという。加えて同時期、ウィチットは自身の著作を通じて国民の民族主義をより奮起させていた。
そして1941年、雪辱を果たし領土を取り戻したことで国内は歓喜し、それを記念して「戦勝記念塔」は建てられた。この塔はまさしく、タイのナショナリズムが盛り上がりを見せたときの象徴的なモニュメントと言える。



碑文に対する疑惑の目
神話の揺らぎ
ヨーロッパからの植民地危機や国家の近代的形成という大きな局面を乗り切るのに、スコータイというある種の神話は大いに機能した。そして、ラームカムヘーン王碑文の存在はそれを伝える大きな根拠となった。だが、先述した通り、1986年からピリヤらによって史的批判が生まれ、タイの歴史学会は騒然となった。また、既にこの頃には公教育で、スコータイと碑文のことが取り入れられていた。そのため1988年、1989年と学者や王族らによってセミナーやシンポジウムが開催され、その真偽の行方に注目が集まった。
限られた同時代の史料
ピリヤは碑文の性質について、ラーマ四世が考える理想の国の方針を、ラームカムヘーン王を通して刻んだものだと主張している。また、歴史学者ニティ・イアオシーウォンは、ラーマ四世の発願文ではないかと述べている。
こうした批判が生まれる背景には、先述した碑文の内容の矛盾などに加え、タイ語含むタイの多様な言語状況が分かる資料や文化財が、アユタヤ朝のときにビルマからの攻撃を受け、そのほとんどが焼失したことが理由に挙げられるという。
また、ラームカムヘーン王に関する同時代の史料についても、この碑文を含むいくつかのものに限られているという。そして何より、ラーマ四世による発見の経緯が不明かつ、最初に国内ではなく国外にその存在が発表されている。こうしたこともあって、碑文に疑惑の目が向けられている。





真偽論争の行方
シンポジウムではラームカムヘーン王自身による創作なのかを主な論点として、偽作説を抹殺せず双方の見解を聞きながら、今やタイの文化や精神の拠り所である碑文をどのような視点で捉えていくかという建設的な議論が交わされた。
そして1991年、タイの学術団体であるサイアム ・ソサエティーが論争をまとめた『The Ram Khamhaeng Controversy』をはじめ、様々な論文が出版されたが結論は出ないまま、1994年以降はその論争も沈静化した。2025年現在も真偽は不明のままである。
終わりに
タイを揺るがしかねないパンドラの箱
現代タイにおける民主主義の形は、その独自性から「タイ式民主主義」と言われる。これはピブーン政権時、ピブーンの部下であった陸軍軍人サリット・タナラットが、1957、58年と二度起こしたクーデターのあと、首相の座に就き推進した体制である。サリットは、立憲革命以降の西欧型の民主主義を否定し、よりタイに相応しい民主主義の形として理想としたのが、スコータイ朝におけるラームカムヘーン王の統治(家父長的温情主義政治)であった。ただ、ラームカムヘーン王時代とは違い、父たる存在がサリットとは別に、ラーマ九世(プーミポン国王)と二人いた。そこでサリットは、ラーマ九世を伝統ある元首、自身は元首から信託を得て慈悲ある政治を実質的に取り仕切る父と、役割をわけつつ双方の権威付けを行った。この統治体制は現代にまで息づいている。つまり、現代タイにおける権力や政治の言説にはスコータイが深く根差している。

しかし、ラームカムヘーン王碑文の存在がラーマ四世の創作、すなわち創られた伝統であったと改めて判明した場合どのようになるだろうか。タイ社会は大きく揺らぎ、アイデンティティに歪みが生じるだろうか。それとも、これまで通りその存在自体に意味を持つと肯定し、よりイデオロギーを強化させるのか。どちらにせよ、ラーマ四世によるとてつもなく緻密で長大な計画であったと舌を巻くしかない。
真偽はどうあれ、スコータイ遺跡一帯を訪れてみると分かることは、明らかに巨大な力を持った国がこの辺りを統治していたことである。ロマンを感じざるを得ない。碑文や遺跡を見に行かれる際は、ぜひ様々な視点や角度でもって、自分なりに微笑みの国の真実に迫ってみては如何だろうか。

主な参考資料
- 柿崎一郎“物語タイの歴史: 微笑みの国の真実”, 中央公論新社, 2007年.
- 柿崎一郎”タイの基礎知識(アジアの基礎知識 1)“, めこん, 2016年.
- 赤木攻”タイのかたち“, めこん, 2019年.
- 吉川利治“スコータイ王朝の王統に関する新しい見解について”, 科学研究費助成事業 重点領域研究, 1980巻80-102, 1980年.
- 矢野暢“「チャクリー改革」論序説(1)”, 東南アジア研究, 30巻3-36, 1992年6月.
- 吉川利治“東南アジアの言語資料に見る国家意識の形成”, 科学研究費助成事業, 1993年.
- 吉川利治“創られる歴史像-近現代に見るタイの国家意識-”, 重点領域研究総合的地域研究成果報告書シリーズ, 12巻1-27, 1996年1月.
- 日向伸介“近代タイにおける考古学行政の導入過程”, アジア・アフリカ地域研究, 18巻113-134, 2019年.
- 日向伸介“外交史料からみる近代タイの文化政策:絶対王制期を中心として”, 科学研究費助成事業 若手研究, 2019-2023年.
- 田中麻里“アユタヤ王朝時代における外国人居留地”, 群馬大学共同教育学部紀要, 57巻95-107, 2022年.
- 下條芳明“タイ王国憲法の歴史的概観と特色-近年の憲法政治の動向を交えて-”, 経営実務法研究, 24巻15-38, 2023年4月.
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