山城国井堤郷旧地全図 – 政治的画策が生んだ史的象徴

『山城国井堤郷旧地全図』とは

皇族の別荘地として栄えたとされる町の絵図

『山城国井堤郷旧地全図』とは、京都府の南部、綴喜郡にある井手町の、古代から中世の頃の景観を描いたとされる絵図である。原図は平安時代の康治二年(1143年)に作成されたとされ、絵図内には奈良時代の皇族、橘諸兄が建立した井手寺(今はない)や諸兄の別荘などが描かれており、かつての井手町を知ることが出来る史料として扱われてきた。

異なる2つの絵図

実は『山城国井堤郷旧地全図』には、描かれたものが少し違うものが2つ存在している。絵図右端に流れる渋川までを描くもの(A図とする)と、その渋川を渡った南岸まで描くもの(B図とする)である。現在、一般によく見られるのはこのB図で(井手寺跡の説明板もそう)、それにはA図にはない、あるものが描かれている。それは諸兄の父、美努王の墳墓である(諸兄の墓は両方描かれている)。なぜ異なる系統の絵図が存在し、片方のみが重宝されているのか。そこには、かつての有力農民による政治的な企て、それに加担したある偽文書、後年にその偽文書を元に顕彰活動を行った人々といった、様々な立場の者たちによって、リレーのような形で紡がれた数奇な歴史があった。

『椿井文書』と普賢寺郷

『五畿内志』と『椿井文書』の関わり

関祖衡・並河誠所によって編纂され、享保二十年(1735年)から刊行が始まった地誌『日本輿地通志畿内部(通称『五畿内志』)』。そして、江戸時代後期、椿井政隆(1770~1837年)によって作成された数百点もの古文書群『椿井文書』。これらの存在が今回も始まりであり、中心となる。なお、本サイトでは『五畿内志』と『椿井文書』に関する説明は、『伝王仁墓』などで行っているため、ここでの詳細は省略する。

儒学を学んだ並河誠所にとって、式内社(朝廷が認可した神社)の祭祀こそが、社会に必要であると考えていた。なぜなら、国家として崇敬に値するためである。そこで、並河誠所は『五畿内志』編纂にあたって、平安時代の官社がまとめられた「延喜式神名帳」などを対象に、現在の神社の所在・比定を改めて追求した。そして発見すると、石碑建立や地図を作成するなど、自説の普及を図った。しかし、その作業には強引なこじつけも度々見られ、神社がある村の人々にとっては、これまでとは異なる由緒や呼び名が登場したことに困惑していた。その影響を受けた神社の一つが、京田辺市にある「朱智神社」である。

朱智神社となる前

仁徳天皇の頃(313年~399年)に創建された朱智神社。ここは近世では牛頭天王社と呼ばれ、この地域(普賢寺郷という)にある10ヶ村の惣社であったとされている。それが、明治初期に朱智神社へと改名された。ちなみに、所在地の地名に天王があるのも、牛頭天王からきているという。
その牛頭天王社だが、元々は式内社に比定されてはいなかった。江戸時代の国学者、坂内直頼や浄慧は、「鎮座記不詳」としている。しかし、並河誠所にとっては、氏神である牛頭天王社こそ、式内社でなくてはならないと考えていたために加えられた。一方で、かつては比定されていなかったという歴史の辻褄合わせに様々なこじつけを行った。その穴のある論理が、後に椿井政隆に利用され、結果朱智神社へと改名されることとなる。

椿井政隆による朱智神社と牛頭天王社の関連付け

現在の朱智神社は、山城国綴喜郡天王村(京都府京田辺市)に比定されている。一方、かつての朱智神社は、「延喜式神名帳」には綴喜郡内にはあったと記されているが、その後の明確な所在が分からなくなっている。これについては、並河誠所でさえも断念していた。そこに目を付けたのが椿井政隆である。

椿井政隆による、「朱智牛頭天王宮流紀琉」という朱智神社の由緒書がある。康元元年(1256年)に作られたという設定で、名前の通り、元々は天王村にあった朱智神社が牛頭天王社に合祀された経緯が記されている。加えて、本来の朱智神社の祭神である迦邇米雷王が、牛頭天王に合祀されたという主張を展開した。迦邇米雷王は唯一『古事記』に登場するのだが、そこにまで系譜を結び付け、朱智神社の由緒を創作したのである。
以前の記事『伝王仁墓』でも紹介したが、椿井政隆は、『五畿内志』における記述の怪しい箇所や誤り、足りない部分を補完するような由緒書、絵図などを作成している。ここでも手法が生かされている。つまり、朱智神社と牛頭天王社は鎌倉時代の頃までは複合的であったが、いつしか朱智神社の名称のみ忘れ去られたという主張を、この由緒で行ったとみられる。並河誠所による曲解した牛頭天王社の比定を、こうした形でうまく活かしたと言える。結果として、この文書が根拠となり、明治に入って牛頭天王社は朱智神社へと改名された。なお、椿井政隆が朱智神社と牛頭天王社を結び付けた背景には、彼の国学的思想が影響していたとみられる。

また、椿井政隆は依頼者の要望に合わせた文書も作成していた。江戸時代の国学者、水島永政による天保一三年(1842年)の調査では、普賢寺郷にあった水取村の大冨家系図に朱智の文字が登場する。式内社と家系を結び付けることで、何かしらの正統な由緒を欲したのだろう。このように、近世の頃には普賢寺郷で、椿井文書が存在していたことがわかる。そして、普賢寺郷に残された椿井文書が、この地域の有力農民のある計画における重要な役割を担うようになる。

史料的価値を得た椿井文書

南山郷士の士族編入計画

近世中期以降、牛頭天王社の祭祀において、苗字を用いる「侍中」と、苗字を用いない「宮座方」との間で対立があった。それぞれ、侍中は村落の領主や有力農民、宮座方は村落中層などで構成されていたようだが、徐々に宮座方の台頭が著しくなってきていた。それに対抗するべく、侍中も結束や立場を強める必要があった。そのためには由緒が必要となる。そこで、侍中の人間たちは椿井政隆へ依頼し、普賢寺郷におけるこれまでの活躍や系譜などを作成してもらっていた。そして、郷士の結束の核に牛頭天王社改め、朱智神社という社格のある神社を据えることで、侍中の歴史と支配的立場を裏付けた。こうしたこともあって、他地域よりも早くから、普賢寺郷には椿井文書が存在していたという。そして、これら一連の文書が、明治の頃にも活用されるようになる。

普賢寺郷にはかつて、南山郷士という有力農民たちがいた。始まりは元弘元年(1331年) に、後醍醐天皇が笠置に逃れた際に、天皇の元へと馳せ参じた南山城の地侍の末裔たちとされている。
慶応三年(1867年)末、郷士の一家、田宮喜平を中心に、南山郷士は禁裏(天皇の住居)への出仕(官職への就職)を計画していた。しかし、当時は士農工商という身分制度があったため、武士ではない南山郷士は基本的には出仕できない。そのはずだったが、慶応四年(1868年)の出願時には、彼らは南朝へと奉公した一族の子孫であると称していたという。その企ての発起人とされているのが田宮家である。
「朱智牛頭天王宮流紀琉」に登場する人物たち(天皇家筋など)は、基本架空のものばかりだが、その中に田宮家の祖とされる「万財伊賀椽橘義安」という実在の人物が登場する。このことから、田宮家も椿井政隆の依頼者であったと見られる。そして田宮家らは、先述した大冨家系図なども含めた椿井文書群を活用して、南山郷士の正統性をアピールしたとみられている。こうした努力(?)の甲斐あってか、南山郷士は明治維新後に約1年半の軍務をつとめたようだが(1869年8月に解任)、結局士族への編入は叶わなかった。この後、彼ら農民の動きは、あの自由民権運動へと展開していく。

そして、この由緒創作の流れで作成したと思われる文書として、田宮家所蔵の家系図「田宮家系図伝」にて、自身の家系を橘諸兄の遠祖としている。この由緒を補強する意味合いもあって、『山城国井堤郷旧地全図』は作成されたとみられる。絵図には、康治二年(1143年)作成で、春日神社に奉納されていたものを嘉暦元年(1326年)に模写し、さらに享和三年(1803年)に再び模写したと記されている。この模写に次ぐ模写という由緒は、椿井文書の特徴といえる。この記述が信じられたことで、『山城国井堤郷旧地全図』は、町の歴史を代表する存在となっていく。

井手町の象徴となった『山城国井堤郷旧地全図』

歴史学者の馬部隆弘氏は、椿井政隆の死後、嫡子の万次郎が明治初期に、家に残った椿井文書を木津の富農であった今井家に質入れし、明治20年頃からそれを各所に売却したことで、近畿一円に広まったと指摘する。『山城国井堤郷旧地全図』においては、1881年に井手の宮本直吉という人物が、今井家が所蔵していたこの絵図を模写したことが知られるきっかけとなった。
1899年に設立された井手保勝会の中心人物だった宮本は、井手町の橘諸兄と美努王の墓を顕彰することに奮闘していた(学者からは否定されていたが)。そこで、この絵図を活用したことで、椿井政隆作の年代含め、広く浸透した。
この宮本写の絵図を、1902年に京都府の名勝旧蹟保存委員であった湯本文彦が借り受け、京都府職員が更に模写した。最初に紹介した2系統ある絵図の内のB図こそ、この絵図である。そして、今やB図の方が広く受け入れられ、井手寺跡の説明板にも使用されるなど、この町の重要な存在となった。ちなみに、田宮家所蔵の『山城国井堤郷旧地全図』はA図であるのだが、こちらが原本にあたるとみられている(椿井政隆の落款がある)。それを元に手を加えたB図が椿井家に残り、後に質入れされ、今日に至るまでになった。A図は、『井手町の古代・中世・近世』という井手町史編集委員会は編纂した町史にて確認することが出来る。

終わりに

偽文書を通じて垣間見る人間の欲望史

以前の記事『円満山少菩提寺四至封疆之絵図』も同様だが、椿井政隆は非常に絵を描くことを得意としていた。これにより、視覚的にも一層の説得力を持たすことが出来た。そして、何らかの箔付けや由緒、誇るべき町の歴史が欲しい人たちによって活用されていく。たとえそれが、偽文書としての指摘がなされていても。『山城国綴喜郡井堤郷旧地全図』に関しても、模写した当時の京都府職員も、今井家所蔵の椿井文書の多くが、史料としては信じがたいものであると認識していた。だが、それ以上に郷土が誇る文化財になり得るという要素の方が魅力的であったのだろう。現在は、京都府立京都学・歴彩館に所蔵されている。

偽りともいえる史的シンボルを通して、なぜそれが創られたか、必要とされたかという視点から、人間の欲と地域史を垣間見ていく。偽史を総覧していくある種の醍醐味が、『山城国綴喜郡井堤郷旧地全図』にはあるともいえる。


主な参考資料

  1. 馬部隆弘“由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に”, 勉誠出版, 2019年.
  2. 馬部隆弘“椿井文書―日本最大級の偽文書”, 中央公論新社, 2020年.
  3. 森永長壹郎“南山義塾の誕生から消滅まで”, 新島研究,104巻51-67, 2013年2月.
  4. 田中淳一郎“田辺町普賢寺の大西家文書と南山郷士”, 京都府教育委員会.
  5. 馬部隆弘“古文書の伝来過程”researchmap研究ブログ, 2020年.
  6. 馬部隆弘“正しい情報の選択”researchmap研究ブログ, 2020年.
  7. 京都府立総合資料館“山城国綴喜郡井堤郷旧地全図”(アクセス日:2026年4月27日)
  8. 井手町“井手寺跡”(アクセス日:2026年4月27日)
  9. 京田辺市観光協会“朱智神社”(アクセス日:2026年4月27日)
  10. 京都府立京都学・歴彩館 歴史資料アーカイブ“山城国綴喜郡井堤郷旧地全図”(アクセス日:2026年4月27日)

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