横樋観音 – 病を治す霊妙な漂着仏

『横樋観音』とは

海岸で発見された経緯不明の観音像

横樋観音とは、岡山県の児島湾に面した升田地区に建つ小堂に祀られている観音座像のことである。一見、古くから地元で親しまれてきたかのように見えるが、その始まりは1980年代とかなり新しい。この観音像を巡る信仰の成り立ちには不思議な経緯がある。

1982年9月5日、横樋海岸で釣りをしていた二人の小学生は波打ち際で妙なものを発見した。見るとそれは、上半身だけ出して砂に埋まっていた観音像であった。漂着物だと思われるがその姿故に、小学生であっても霊妙さを感じさせるには十分であった。そのため二人は像を洗い流し、岸辺の堤防下に安置するとともに今後の良い釣果を祈念した。
これ以降放置された観音像であったが、同年9月中頃に行われた地元の漁業組合による海岸清掃時に堤防下から再発見された。この時、一度ゴミとして収集車まで持ち運ばれたが運転手が処分を拒否。そこで近隣住民の一人が、堤防の上で祀っていたという地蔵像の脇に観音像を置き共に祀った。その後、日頃から地蔵像を拝みに来ていた地元住民をはじめとする人々が、新しく祀られた観音像に気づき、その存在が地域中に伝え広げられていく。そうするうちに、いつしか観音像自体への参拝客も見られるようになったという。

開眼供養を経て魂を宿した観音像

1982年12月、地蔵像の清掃中に観音像のこれまでのいきさつを聞いた地区の長老は、1983年1月2日にあった寄合で、改めて正しく祀ることを呼びかけた。祀り方については、地区内でも信心深いというある女性(A氏とする)を通じて、岡山市金岡で不動講を主催するオガミヤの祈祷師に白羽の矢が立った(A氏が十年来懇意にしている祈祷師とのこと)。

早速、A氏が祈祷師に電話で相談をしたところ、祈祷師は直ちに「観音様が香の香りを聴きたいと云っている」と述べた。そこで、地蔵像と共に祀った住民などが、その日のうちに祈祷師へ観音像を預けに行くことにした。
観音像を預かった祈祷師は10日間ほど観音像のお清めをした後、像に魂を宿す「入魂の法」を執り行った。するとある晩、観音が「横樋に帰って三十三変化し、困っている者を皆助けてやる」と告げた。そこで祈穣師は、いつ横樋へ帰るのかを問うと18日と答えた。これを受けて1983年1月18日に、祈祷師が司祭のもと横樋で観音の開眼供養がなされることとなった。

供養前日は、この地区の冬としては異例の風雨であったが、当日観音像が横樋に到着したときには雨も風も止み、一時間程度の開眼供養は無事終了した。
この供養後はまた荒天となったのだが、そこで神秘的ともいえる現象が起きた。使用していた一対の蠟燭が強風に煽られ、互いに真ん中で重なるように固まった。その際飛び散った滴の効果もあり、まるで羽根を広げた鳳鳳のような造形に見えたという。
実はA氏は、供養の前夜に鳳凰が海から舞い上がる夢を見ていた。その夢とリンクするような出来事が現実に起こったため、これは観音がもたらした吉兆であると捉えた。そして、この逸話は観音が霊験あらたかであることを証明するエピソードとして、立ち会わせた人たちの間で広まっていった。付随して、開眼供養前後の悪天候も、清めの雨だったのではという解釈がいつしか囁かれるようになっていった。

このようにして、信仰対象に足りうる霊威を発揮した横樋観音は、ここからご利益をもたらす流行神として、一時熱狂的なブームを巻き起こす。

急速な信仰獲得と運営方法の策定

病を治す奇跡をもたらす

供養の後A氏や長老は、患っていた足の痛みや腰痛などが治ったという。この話が升田地区に広まると、次第には岡山市内の他の地域にも伝播し、横樋観音へ訪れる人が増加していった。当時横樋観音に置いてあったという参拝者が自由に書き込めるノートによれば、身体の不調の回復を祈願、または御礼する内容が多くみられたとのこと。中には、暴走族で特攻隊長をしていたと思しき若者による、一年無事活動できたことへの御礼も見られるなど幅広く親しまれていた。

堂の建造や祭事の設定を行う

増加する参拝者に対応するために、横樋観音の運営方法を整える必要性が出てきた。そこで関係者らは、横樋観音と同じく病が治るという触れ込みで大勢の参拝客が訪れていた、広島県府中市の『首無地蔵』に赴きその手法を学んできた。
縁日は、一般的な観音の縁日と開眼供養を行った日(18日)が同じであったことからこの日に決定した。また、堂を建造するために、1983年3月18日には地鎮祭を行った。こうした一連の出来事が、地元紙の『山陽新聞』やNHKをはじめとするマスコミに取り上げられたことで、横樋観音は更なる注目を集め、毎日平均100人の参拝客で賑わった(東京や大阪からの参拝客もいたとのこと)。地区の新名所となった横樋観音は、1983年5月18日に行われた堂の竣工式と縁日には約2000人の参拝者が訪れ、その落成を祝った。なお、祭事に関しては、当初から関わっていた祈祷師が司祭としての役割を担った(観音の日々の世話役もしていた)。

更に増加する参拝者に伴って堂の移転を行う

信仰圏が拡大し、より増加する参拝者。毎月の縁日に加え、1月1日の「元旦祭」、5月18日の「春大祭」(堂の完成日)、9月18日の「秋大祭」(観音の出現した月)は「年大祭」として、特に多くの人が訪れていた。しかし、当時の堂は堤防内側にあった広場に建てられていたようで、参拝者が多数となると交通渋滞を引き起こしていた。そこで1988年12月から堂の移転が計画され、境内となる場所の整備が行われていった。そして1991年10月10日に新しい堂のための地鎮祭、11月14日に建前(建造物の骨組みを組み立てる建築儀礼)が挙行され、無事現在地へと移転された。

こうして、1980~1990年代にかけて熱狂的な信仰を集めた横樋観音であったが、その後は他の流行神同様にブームは終了した。引き続き縁日や年大祭は行われているが、現在は地元の人々に大切にされながらひっそりと湖上の堂で佇んでいる。

終わりに

穏やかな海を望みながら感じる、観音という「神」の霊威

奇跡のような霊験譚で信仰を獲得し、一時代を駆け抜けた横樋観音。その観音像は、岡山県立博物館の鑑定によれば中国の明代末(17世紀前半)の作品とのこと。とはいえ、作者や経緯は今も全くわからないままである。そのため地区の人々は市へ取得物届けを出し、持ち主探しも行ったが特定出来なかったため、管理は町内会に任されることになった。
そんな謎の観音像であっても救いを求めた人が多かったのには、同時期にあったバブル崩壊や阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件などがもたらした、先行きの見えない暗い雰囲気が影響していたと考えられる。社会不安や変動などからの救済、つまりメシアニズムである。

また興味深いのが、信仰対象である横樋観音は大本は仏に所属する。しかし、境内にあったノートの書き込みによれば、「神様」との記述が多くみられたという。教義としては誤った認識であるが、ご利益を得た人々にとってはまさしく神のような存在であっただろう。

児島湾を望みながら、潮風と共にゆったりとした時間が味わえる横樋観音。訪れる際は、不思議で劇的だった背景と時代に思いを馳せながら参拝してみては如何だろうか。


主な参考資料

  1. 柳田国男“石神問答”, 聚精堂, 1910年.
  2. 宮田登“近世の流行神 (日本人の行動と思想)”, 評論社, 1972年.
  3. 村田典生“流行神:民間信仰におけるハヤリ・スタリとそのメカニズム”, 佛教大学, 2021年.
  4. 鈴木岩弓“「流行神」の誕生と霊験譚 : 横樋観音の場合”, 島根大学教育学部紀要第26巻, 143-152, 1992年12月.
  5. 黄緑萍“流行神研究序説:『郷土の伝承』に見られる信仰の諸相”, 東北文化研究室紀要第54巻, 2013年3月.
  6. 黄緑萍“宗教がどう生まれるのか―現代の「流行神」への試み―”, 東北大学大学院博士論文, 2015年1月.

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