山田長政伝説 – 謎多き海外雄飛の嚆矢

『山田長政伝説』とは

かつてタイに渡り出世したとされる人物の伝承

『山田長政伝説』とは、江戸時代初期に、シャム(現在のタイ)に渡航し活躍したとされる人物「山田長政」に関する様々な物語のことである。朱印船に乗り込み、アユタヤに辿り着いた後、そこで商人や軍人として数々の功績を残したと言われている。
寛永の頃(1621~1644年)、京都の豪商の朱印船に書記として乗船し、10代の内の数年間にシャムやインドを旅した、播磨出身の天竺徳兵衛による見聞記録『天竺徳兵衛物語』によれば、「山田仁左衛門」というシャム一国の主がいたと記している。

山田長政について

山田長政の出生地については諸説ある。代表的な場所として挙げられるのが、伊勢・尾張・長崎・駿府である。先述した『天竺徳兵衛物語』には伊勢出身とある。
その内現在は、駿府説(静岡県)が広く一般的となっている。最初に駿府説が提唱されたのは、1716年に肥前国平戸藩士の熊沢淡庵(諱は正興)によって刊行された『武将感状記』とみられる。
駿府浅間神社(静岡浅間神社)の神職をしていた新宮高平が、傍らで6年の歳月をかけて編纂し、1861年に著した地誌『駿河志料』には、駿府馬場町(静岡県馬場町)で生まれたと記されている。
榊原長俊が1783年に著した『駿河国志』によれば、紺屋(染物屋)の父の元に生まれたというが判然としない。

1590年に誕生したとされる山田長政であるが、駿府でどのように生活していたかについては、あまり明らかにはなっていない。そして、年代は定かではないが、関ヶ原の合戦後、将軍を退位して大御所となった徳川家康が、1606年に駿府城を隠居城にした以降のどこかのタイミングで沼津へと移ったという。
移住先の沼津では、駕籠かきを生業としていた。徳川家康に仕えた臨済宗の僧侶、金地院崇伝による『異国日記』の1621年9月3日条には、沼津藩主・大久保忠佐お抱えの駕籠かきであったと記されている。ただ、大久保忠佐は1613年に没しており、その後大久保家は跡継ぎなく断絶している。そのため、山田長政が駕籠かきをしていたのは、1613年より前ではないかとみられる。
そして、駕籠かきを辞めた山田長政は、再び駿府馬場町へと舞い戻ったとされている。なお、この『異国日記』の記録が、シャム渡航以前の山田長政を知れる唯一ともいえる史料となっている。

国際都市となる駿府

徳川家康が行った政策の一つに、海外貿易が挙げられる。徳川家康は、豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の戦後処理や明との国交回復を始めとして、朱印船貿易など、アジアの近隣諸国やヨーロッパ諸国との貿易政策を積極的に取り組んだ。
1607年以降は外交顧問として、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が携わるなど、隠居した駿府にて海外貿易を更に推進していく。これにより、駿府は海外への窓の役割を担うこととなっていく。
各国との関係が築かれる中、徳川家康が当時のシャム第22代国王エーカートッサロット(在位1605~1610年)に修好通商の書簡を出したのは1606年のことである。それに対し、エーカートッサロット王がどう反応したかについては、研究者によって見解が分かれている。黙殺した、もしくは鉄砲の返礼品を送ったなどといわれているが、いずれにせよ徳川家康は、1608年にシャムへと使者を派遣している。その後、幕府宛に複書があったことで、国交が結ばれるようになっていく。

海外へと居場所を求める

駿府に戻った山田長政がその後、なぜ異国に新天地を求めたのかについては定かではない。国内で罪を犯し逃亡するため。駿府での仕事よりも大志を抱いていたためなど、記録や研究によって様々である。
そして、いつどのようにシャムへと向かったかについても、これまたはっきりとはしていないが、時期はおおよそ1610年代のどこかだとみられている。なぜなら、後にシャムで子どもを設けるのだが、長子オーククン・セーナピモックが、史料によれば1630年に18歳との記述がある。そこから逆算して、1612年には渡航していたのではないかと推定されている(この時23歳)。

次にどのように渡ったかについてだが、これもまた謎が多い。駿府郊外にあった東押切村(清水市押切)に住んでいた柴山柳陰士が、元禄年間(1688~1704年)に纏めた『山田仁左衛門渡唐録』では、駿府で舶来品の商人だった滝左右衛門と太田治右衛門の共同の朱印船に乗り、大坂(大阪府堺市)から出航したという。ただ、『山田仁左衛門渡唐録』は山田長政の時代から時が経って纏められているので、尾ひれなども多分についた伝承となっている。
『天竺徳兵衛物語』によれば、武蔵国で罪を犯し、逃亡先の長崎でシャム行の朱印船に乗ったと書かれているが、この記録は天竺徳兵衛が90代となった1707年に、当時を思い出しながら書いている。そのため、一概に信用はできない。

アユタヤで成功し名声を築く

貿易家としての活動

シャムのアユタヤに辿り着いた山田長政が主とした生業のひとつが貿易業である。日本向けの蘇木や鹿皮などの買い付けを行うことで名を上げていった。それまでは、オランダが日本-シャム間における貿易を独占していたが、山田長政の参入により、次第に撤退していったという。
オランダ側に残る文書で、1624年12月27日にやり取りされた、長崎県平戸の商館長ニーウローデとシャム駐在ヤン・ファン・カンペの書簡によれば、オークプラという人物(これが山田長政とみられる)が、自身で仕立てた貿易船で皮を売買していたとある。
1625年7月10日の、ニーウローデとシャム駐在ピーテル・ファン・デル・エルストとの書簡では、オークプラはオランダ船にまで自身の品物を積載させて運ばせていたとある。強引な面はありつつも、貿易家として知られた存在になっていたことが伺える。山田長政の台頭により、その後オランダは、1629年に自国商館を閉鎖する。

同時期、山田長政の名は幕府にも届くようになっていく。『異国日記』によれば1621年、シャム国王が第2代将軍徳川秀忠に送った国書の取次を、山田長政が幕府の老中、土井利勝と本多正純に書状で依頼したという。このときはまだ誰も山田長政のことを知らない状態であったが、かつて藩主の駕籠かきをしていたという経歴が次第に広まり、幕閣を中心に話題の人物となっていく。その後、シャム使節は江戸城にて徳川秀忠と謁見し、山田長政にも返書と返礼品が贈られている。これ以降、日本-シャム間の貿易は山田長政を中心に盛んになっていく。

アユタヤの日本人町について

山田長政が渡ったころのシャムはアユタヤ朝(1351~1767年)であった。初代をラーマーティボーディー1世(ウートーン王とも)とし、タイを代表する大きな河川のひとつ、チャオプラヤー川下流域のデルタ(三角州)に王都が創りあげられたことで、陸・海共に様々な国との交易が盛んな港市国家として栄えた。
また、その影響からアユタヤには多くの外国人が移り住むようになり、オランダ人町、ポルトガル人町という風に、外国人が居住するための町ができるなど、国際色溢れる都市となった。その中に日本人町も存在していた。

日本人が定住するようになった時期は、およそ16世紀末とみられている。最盛期には1,000~1,500人(3,000人とも)程度の人口で、その多くが関ケ原で敗れた、石田三成側の西軍武士たちであったという。徳川幕府に外様大名としても扱われず、家も無くなり浪人として路頭に迷った大名や武士などが、多数流れ着いていたのが理由とされている。その場所に山田長政も住んでいた。

力をつけていく日本人義勇軍

人種多様な国家では、多くの場合は民族それぞれで集団化し、自分たちを守るために義勇軍などが作られる。アユタヤも同様で、当時約600人の日本人義勇軍が存在していたという。そして、そうした集まりは時に、権力に対して武力行使することがある。それを象徴する事件が、1612年にアユタヤで起きた「日本人反乱」である。
事の発端は、エーカートッサロット王の後継として即位したソンタム王(在位1610~1628年)が、官僚の一人、オークヤー・クロムナーイワイをとある謀反の容疑で処刑したことに始まる。
クロムナーイワイは当時のアユタヤ在住日本人のリーダー的存在であり、配下を数百名従えていた。その人間が政略によって命を落としたために、日本人義勇軍は蜂起した。280人もの集団が王宮を取り囲み、ソンタム王を拘束した。そして、クロムナーイワイを密告した人物の引き渡しや、日本人に対する特権の付与などを要求した。これらの要求を、ソンタム王は受け入れたことで事態は収拾した。
このことから、既に日本人義勇軍の力がアユタヤ内でも強大になっていたことがわかる。なお、この時点で日本人義勇軍に山田長政が関わっていたかははっきりはしていない。

日本人村の頭領となり、急速に出世していく

多くの浪人が住んでいた日本人村には、それらを束ねる頭領が存在していた。初代はオークプラ純広という人物ではないかとみられている。このオークプラというのは、当時の王朝における貴族階級で、6つある内の2番目に相当する高位である(日本でいう公爵、男爵クラス)。山田長政はアユタヤ移住当初、このオークプラ純広の配下であったとする説がある。
その後も頭領が代替わりする中、山田長政は1620~1621年頃に頭領になったとみられている。そして、1621年に起こったスペイン艦隊によるアユタヤ侵攻を、山田長政率いる義勇軍が退けたことで、ソンタム王に重用されるようになる。

貿易家としてだけでなく、武力集団のリーダーとしても信頼を得た山田長政は、貴族に列するほどの昇進を果たす。1629年頃にはアユタヤ朝の最高位オークヤーを冠した、オークヤー・セーナーピムックという欽賜名を授かったとされている。

転落と左遷

ソンタム王の死

1628年12月12日に、38歳という若さで病死したソンタム王。これに伴い、王位継承を巡って内紛が発生し、山田長政はそれに巻き込まれる。
ソンタム王の腹心、オークヤー・シーウォラウォン(後のプラーサートトーン王)をはじめとする、ソンタム王の息子チェーターティラート即位派と、もう一人の腹心、オークヤー・カラホムをはじめとする王弟シーシン派の争いの結果、チェーターティラートが即位する。この時山田長政は、シーウォラウォンに協力していた。
チェーターティラートが勝利した要因として、この頃にオランダ東インド会社の商館長としてアユタヤに駐在していたエレミヤス・ファン・フリートの記録『シャム革命史話』によれば、オークヤー・セーナーピモック率いる約600人もの日本人兵士をはじめとする軍事力が大きな影響を与えたという。だが、このことが後に悲劇を招くこととなる。

シーウォラウォンの暗躍

チェーターティラートの補佐を担っていたシーウォラウォンは、即位当時14、15歳であった幼帝に代わって、次第に実験を握るようになる。
カラホムを処刑したシーウォラウォンはその後、自身がカラホムの官職と名跡を継ぎ、シーウォラウォンのポストには彼の弟が就任するなど、横暴な振る舞いが顕著となる(以降、これまでのシーウォラウォンがカラホム、実弟がシーウォラウォンとなる)。それについて批判したチェーターティラートだが、シーウォラウォンに謀反を起こされ処刑されてしまう。即位してからわずか8ヶ月のことであった。

アユタヤを追い出された山田長政

次にカラホムが擁立したのは、チェーターティラートの弟で10歳のアーティッタヤウォンであった。またも幼帝を担ぐことで、カラホムは補佐・摂政としてのポジションを確立する。
当初はカラホムに協力していた山田長政であったが、一連の専横な言動から、両者の間に確執が生まれていた。しかしカラホムにとっては、溝が深まれば山田長政率いるアユタヤ随一の軍事力がいずれ障壁となるかもしれない。そこでカラホムは、山田長政を南部のリゴール(現在のナコーンシータマラート)へと追い出すことを考える。
当時のリゴールは、アユタヤの支配下ではあったが、住民の反発から完全な統治には至っていなかった。そこで、リゴール前長官に代わって、山田長政を新たにリゴールの領主に任命し、当地を平定するよう向かわせた。
このいきさつについては、山田長政は渋っていた説や、政治の陰謀が渦巻くアユタヤに嫌気がさし、進んで新天地を求めたという説がある。今日通説となっている「カラホムが山田長政を遠ざけるため」というのは、『シャム革命史話』によるところが大きい。
ただ、著者フリートは、山田長政に対して良い感情を持っていなかったそうで、所々露悪的に描かれており、内容すべてを鵜吞みにはできない。

リゴールの平定と死

山田長政がリゴールに左遷されたのは、1629年のことだとみられている。日本人兵のみならずアユタヤ兵も動員したリゴールの平定は、その軍勢によってあっけなく完了した。
一方その頃、カラホムはアーティッタヤウォンを殺害する。アーティッタヤウォンの在位は1ヶ月ほどだったという。そして自身が王位につき、名をプラーサートトーンと改める。そのことを知らぬ山田長政は、アーティッタヤウォン宛に戦勝の報告を送るのだが、それを呼んだプラーサートトーンは、リゴールの王となった山田長政をいよいよ葬るため、褒美を与える名目でリゴールに使節を派遣する。
1630年、使節と通じたリゴール前長官の弟、オークプラ・ナリットによって、山田長政は毒殺されたという。ナリットは、山田長政が信頼を寄せていた人物とされているが、それが仇となった。山田長政は、リゴール平定時に怪我した足の治療をナリットに任せたのだが、その時貼られた毒の膏薬で死亡した。

日本人町の消滅

山田長政の死亡時、18歳であったとされる息子のオーククン・セーナーピムックは、自身が父の後を継いでリゴールを治めると考えていた。だがリゴール前長官は、当時日本兵隊長のオーククン・シルウイ・アグウォット(日本人とみられるが本名は不明)を唆し、対立を生じさせる。途中でその計略に気付いたアグウォットは前長官を殺害するも、そのことがきっかけとなり、前長官派だったリゴール住民と日本人との間で争いが起きる。その際にアグウォットは戦死し、オーククン・セーナピモックら日本人はカンボジアへと逃れたとされる(疑問視されてはいる)。

山田長政やその息子もいなくなり、自身を邪魔するものは何もなくなったプラーサートトーンだが、一つ気がかりだったのが、アユタヤの日本人町であった。
兵士としての日本人はリゴールへと向かったが、その妻子や、主に貿易に従事していた者たちは引き続き日本人町に居住していた。そのため、当初は存続させる意向であったが、リゴールから戻った残党による復讐を懸念したプラーサートトーンは、1630年に日本人町を焼き討ちにした。
この辺りの経緯についてはまたも諸説あるが、残る史料が主にオランダ側の解釈によるものであることから、どこまで正確かは分からない。
同じ頃、日本側は鎖国を行ったことで朱印船貿易は廃止となり、山田長政が生前のときのような、東南アジアとの盛んな貿易関係はなくなっていく。
日本人町については、焼き討ち後に多少の復興はしたそうだが、新しく渡航してくる日本人がいなくなったため、18世紀はじめに町としての実体は消滅した。

なお、現在の日本人町跡地は、1933年に歴史学者の東恩納寛惇が行った現地での発掘調査にて、見つかった出土品から場所が特定された。その後、1935年には三井物産社長であった安川雄之助が1万バーツもの費用を投じて一帯の土地を買い、整備したことで今のような形となった。敷地内は展示室などもあり、日本人町の歴史が学べる施設となっている。

山田長政は本当に武勲を立てたのか

オークヤー・セーナーピムックは山田長政?

山田長政の生涯を概覧したが、実は彼がシャムに渡ってからのエピソード、特に出世話については不透明な点が残っているのだが、それにはアユタヤ朝から続く、タイの伝統が関係している。
アユタヤ朝は、有能な人物であれば外国人であっても、商業や政治などあらゆる分野で積極的に活用していた時代として知られる。この文化は現代にまで息づいている。即ち、誰であれ、結果を残せば正当な評価が得られた。このことが、山田長政の評価を難しくさせている。

シャムで賜ったオークヤー・セーナーピムックという名についてだが、オークヤーが官位であることは既に触れた。
次のセーナーピムックだが、一見シャムでの通称名に思えるが実はそうではなく、職位で「軍隊の領袖」を意味する。つまり欽賜名というのは、個人が抹消される制度といえる。
そして、欽賜名は一人の人物のみに与えられるものではなく、出世すれば他の人物にも同様の名が与えられる。
したがって、山田長政以外にも複数のオークヤー・セーナーピムックがいたと考えられるため、名前からでは判別できない。このことから研究者の赤木攻は、山田長政が功績を上げていたとしても、どのオークヤー・セーナーピムックが彼に該当するかはわからないとしている。

これまで、アユタヤからリゴールに至るまでの武勲を、一先ず山田長政の物語として進めてきたが、実際のところ、こうした経緯が書かれている一次史料『シャム革命史話』では、山田長政の名はなく、全てオークヤー・セーナーピムックの名で書かれている。そのため、全て彼の功績であるかについては議論の余地がある。先に紹介した、オランダ文書に登場するオークプラも、その観点では同様に更なる検証が必要かもしれない。もしくは、視点を変えれば、沢山の山田長政がいた状況下であったともいえる。

史料に出てこない山田長政の名

そもそもタイ国内の史料においても、山田長政の名、または彼だと確実に同定できる記録がほとんど見出せない。『シャム革命史話』をはじめとする一次史料は、オランダ側などのものが多く、しかも脚色されているという(そしてオークヤー等の名で登場する)。こうしたことも、山田長政伝説に疑いの目が向けられる理由となっている。

研究者の矢野暢はあくまで伝説上の英雄であり、虚像であると主張している。一方で、『異国日記』では「山田仁左衛門長正」なる人物が登場する。先述した、幕府への書状の話も、矢野はこの人物が山田長政とみている。このことから、山田長政自体は実在しており、シャムにも渡ったとは思われるが、それ以上の存在ではないと捉えている。研究家の原田実は、そこまで出世したかという点では疑わしいとしている。
矢野の指摘について、研究者の小和田哲男は、長政伝に創作や虚像の要素があることは同意しつつも、『シャム革命史話』や『異国日記』の記述を踏まえて、状況証拠としてオークヤー・セーナーピムックは山田長政であると反論している。

戦艦図絵馬の矛盾

静岡県の静岡浅間神社に奉納された「戦艦図絵馬」(現在は静岡市歴史博物館が所蔵している)。山田長政がアユタヤの日本人町の頭領となり、王朝からも重用されていた頃の1626年に、自身がシャムでの戦で用いた戦艦の図を、日本へと帰国する商人に託して、産土神である静岡浅間神社に送ったとされている。
山田長政は駿府を発つ前、シャムでの大成をこの神社で祈願したという。この絵馬は、それが成就したことに対する御礼とみられ、シャムでの成功を示す史料として扱われている(駿府出身説を後押しする史料ともされている)。
なお、原図は1788年に焼失したのだが、それ以前に模写してあったものが今にまで伝わっている。

しかし、この絵図にはいくつかの矛盾がみられる。
まず、船の形状そのものが戦艦ではなく、同時期、他に伝わる絵図に描かれた朱印船と似ている。
次に、複数の大砲が搭載されているが、特に船首や舷側のものが、戦艦用ではなく朱印船用のものではないかという。朱印船は海賊の襲来を防ぐために、最低限の軍備はしていたのだが、それと近い。
そして、武士が多数乗船しているのだが、着ている甲冑と太刀の刷き方が当時の時代ものではないという。
以上のことから小和田は、絵図の船は戦艦ではなく朱印船と指摘している。そうであれば、貿易家としては成功を収めた可能性はあるが、軍人としては再評価が必要かもしれない。

山田長政の顕彰運動

静岡浅間神社との関係性とブームの到来

出生地が諸説あることは述べたが、現在一般的な駿府説は、江戸時代に行われた、静岡浅間神社の宣伝の一環として創られた伝承だという。静岡浅間神社は元々、徳川家が庇護していた神社ではあるが、そこに英雄・山田長政を結び付けることで、よりご利益のありそうな要素を加えたとみられる。

更に、1892年には山田長政ブームが訪れる。それを起こしたのが、侠客として知られる清水次郎長こと山本長五郎である。静岡に縁故のある人物として山田長政を知った彼が、郷土の英雄に仕立てようと建碑を計画したのが契機となっている。
その顕彰運動を複数の地元紙が報じ、郷土史家などが山本長五郎に協力する形で、山田長政に関する文献を多数出版した。これにより、多くの人が山田長政を認知した。このことから、明治期の資料のほとんどが駿府出身としている。
そして、このときの考証が、昭和初期に歴史学者・岩生成一をはじめとする学者たちが提唱した「山田長政=オークヤー・セーナーピムック」説の源流となっているという。原田は、彼らが『シャム革命史話』などの記録を山田長政の事績であるとした主張は、明治期の研究の流れを汲んでいるとしている。もしかしたら山本長五郎こそ、今日の山田長政像を創った人物なのかもしれない。

ナショナリズムを鼓舞する存在となる

山田長政に関する研究書や小説は、1941~1942年の間に多く出版されている。そして、そのタイトルには「南進」がよく使われている。これは、太平洋戦争時の日本が構想していた「大東亜共栄圏」に基づく、南方進出政策が関係している。

大東亜共栄圏とは、当時欧米列強の植民地支配下にあったアジア諸国を開放し、日本をリーダーとして共存共栄の経済圏を作ることを目指したものである。1940年に基本方針を掲げ、イギリス領のマラヤやオランダ領の東インドなどを、各国と戦闘の末勝ち取るが、結局は欧米に代わっての新たな植民地支配といえるものであった(そして、これが戦後のアジア諸国における独立運動の萌芽ともなっている)。
この国策を正当化し、民衆を鼓舞するシンボルとして、山田長政は東南アジア進出のパイオニアであることから顕彰された。更には一時期、修身教科書(戦前までの道徳教科書)に彼の生涯が掲載されるなど、プロパガンダに利用されている。

なお、教科書に登場する少し前の1935年には、アユタヤの日本人町跡地に長政神社が建立されている。これは、日本海軍が当地を訪れた際に建てたものなのだが、この頃から軍部が山田長政を意識していたことが伺える。

ちなみに、この大東亜共栄圏だが、当時の東条内閣は劣勢となっている戦争の協力体制を強化するため、1943年11月に東南アジアの首脳と大東亜会議を開催している。
この時、満州や中華民国をはじめ、ビルマ(1943年8月に独立宣言)やフィリピン(1943年10月に独立宣言)などの首相や大統領が出席する中、タイはワイタヤコーン首相「代理」が出席している。ここに、タイの外交上手な一面が見て取れる。
タイは戦時中は枢軸国に協力しつつも、裏で連合国側とも接触していたことから敗戦国扱いを免れている。この時も、日本は逼迫する情勢下で、何としてでも軍事協力を得るために友好関係を保つ必要があったが、タイは首相が会議に来日しないことで、日本への全面的な同意ではないことを示すという、つかず離れずの強かな対応をしている。
とはいえ、満州や中華民国のみならず、ビルマやフィリピンも、独立宣言はしたものの実態は日本の傀儡政権であったため、実質他国の支配を受けていないのはタイのみといえる状況下であったのだが。

日タイの友好事業「長政まつり」

1986年から静岡の浅間通りでは、長政まつりというイベントが行われている。最初は地元有志達が行い、その後は商店街の振興組合が主催となって、毎年10月頭に開催されている(2025年で38回目)。
2005年からはタイ政府の支援を受けるなど、今や日本とタイを繋ぐ架け橋として、伝説の真偽はともかく、山田長政は重要な存在となっている。

まつりの日は、メインステージでタイ舞踊や静岡木遣保存会による木遣りなどが披露される。

また、長政まつりでは毎年「山田長政役」を担う人がいるらしく、2025年はパフォーマーのあまる氏が担当。ステージでは大道芸を用いた寸劇で、山田長政の生涯を表現していた。

まつりの最後は、商店街の通りを参加者たちが端から端まで練り歩き、静岡浅間神社に戦艦図絵馬を奉納するという儀式が行われる。

終わりに

南方に消えた不可知の巨星

日本では神話化した山田長政だが、タイ国内はどうなのかというと、その知名度は日本と比べると格段に低い。そのうえで、知っている人の中には、外国人でありながら王位継承などの内政に深く干渉した故に自滅したと、低い評判だという。
また、ナコーンシータマラートの人々にとっては、侵略者という印象を持っている人もいるとのこと。悲劇の英雄譚として描かれがちだが、現地の人にとっては確かにそうだ。

本当に海外雄飛の先駆者であったのか、それとも創り出された虚像なのか。
今なお大きな存在感を放ちつつも、実体の掴めなさからか、「歴史に何を求めるか」という、その時々のイデオロギーで評価が揺らいできた「山田長政伝説」。異端ともいえるこの人物の正体がわかる日は果たして来るのだろうか。


主な参考資料

  1. 小和田哲男“史伝山田長政”, 学研プラス, 2001年.
  2. 柿崎一郎“物語タイの歴史: 微笑みの国の真実”, 中央公論新社, 2007年.
  3. 原田実“トンデモ偽史の世界”, 楽工社, 2008年.
  4. 柿崎一郎”タイの基礎知識(アジアの基礎知識 1)“, めこん, 2016年.
  5. 赤木攻”タイのかたち“, めこん, 2019年.
  6. 土屋了子“山田長政のイメージと日タイ関係”, アジア太平洋討究, 5巻97-125, 2003年3月.
  7. タナポーン・トリラッサクルチャイ“日本近現代文学におけるタイ表象の研究”, 九州大学博士論文, 2013年.
  8. 張慧珍“徳川家康の駿府外交体制─駿府外交の構想について─”, 総合人文科学研究センター研究誌「WASEDA RILAS JOURNAL No.1」, 2013年10月.
  9. コースィット・ティップティエンポン“日タイの文学作品にみる山田長政:『王国への道』と『オークヤー』との比較研究”, タイ国日本研究国際シンポジウム論文報告書, 19号62-75, 2015年.
  10. 橋本順光“ポカホンタス伝説としての山田長政物語:明治の小説から大映の映画まで”, タイ国日本研究国際シンポジウム論文報告書, 2014巻157-175, 2015年3月.
  11. 田中麻里“アユタヤ王朝時代における外国人居留地”, 群馬大学共同教育学部紀要, 57巻95-107, 2022年.
  12. BS-TBS“関口宏の一番新しい近現代史 #208「絶対国防圏をめぐる攻防!学徒出陣・大東亜会議」”, 2026年6月20日放送.

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