『鬼室神社』とは
百済からの高官が埋葬されている神社
『鬼室神社』とは、滋賀県蒲生郡日野町小野にある小さな神社である。ここは、飛鳥時代に百済から日本へと亡命した鬼室集斯が眠る地として知られており、神社名もそれに由来している。



鬼室集斯とは
鬼室集斯とは、朝鮮が三国時代だった頃の一国、百済からの渡来人である。660年に唐・新羅連合軍との戦いに敗北し、滅ぼされた百済。その後百済の遺臣たちは国の復興を目指すべく、日本の支援を受けて663年に再び唐・新羅連合軍と衝突する。だが、この「白村江の戦い」でも敗れたことで、百済は復興への道が完全に閉ざされる。この時期、数多くの百済人が日本へと亡命渡来したのだが、鬼室集斯もその一人とされている。
鬼室氏は百済王家の一族であったという(鬼室は百済の姓)。中でも著名なのは、『日本書紀』などの史料にも登場し、660年の百済復興運動の中心人物でもあった鬼室福信(?~663年)である。その子とされる鬼室集斯は、同じく『日本書紀』によれば、663年(天智二年)9月に渡来したとある。
669年(天智八年)、鬼室集斯や余自信(同じく百済王族)らをはじめとする百済の男女700余人は、当時の都であった近江大津宮(現在の大津市)に遷され、その英才で日本の発展に寄与した。
鬼室集斯は、665年(天智四年)と671年(天智十年)に「小錦下」という冠位(冠位二十六階制の第13位)を与えられている。更には、律令制における大学寮の長官に相当する「学職頭」(現在でいう文部科学大臣的な役職)に任命されるなど、その有能さから天智天皇に近しい人物であったとみられている。
発見された鬼室集斯の墓碑
近江朝の文化面に貢献した鬼室集斯だが、その墓碑とされる八面体の石造物が1805年(文化二年)に、仁正寺藩典医の西生懐忠によって発見された。きっかけは、地元住民から近江国蒲生郡小野村(現在の日野町小野)にあった不動堂に、「八角の石柱」があるとの話を聞いたことである(子どもが墓碑で遊んでいるところを通りがかったという説も)。
実際にその石柱を調査すると、正面に「鬼室集斯墓」、右面に「朱鳥三年戊子十一月八日殂」、左面に「庶孫美成造」との銘文が刻まれていた。そして西生懐忠は、1806年(文化三年)に『祭鬼室集斯墓詩幷序』と『鬼室集斯墓考』という二つの小稿で、石柱を鬼室集斯の墓であると考証した。これにより、その存在が広く知られるようになった。
しかしこの墓碑、実は発見当時からその真偽に疑いの目が向けられており、様々な論争を惹起していた。



墓碑を巡る諸問題
墓碑の石質
1903年に、蒲生郡教育会長であった遠藤宗義の依頼で、京都の松井淳風(墓碑等に造詣が深いとのことだが略歴は不詳)が行った鑑定では、「碑は正しく朝鮮石」という結果が出たという。
その後、研究者の胡口靖夫氏が、国立科学博物館地学研究部に鑑定を依頼をした結果、流紋岩質凝灰岩という結果が出た。だが、このときは墓碑から小さな石材を摘出しての鑑定だったため誤りであったことが後に分かる。
1994年、滋賀文化財保護協会が元大津市立科学博物館の宇野光一氏に鑑定を依頼したところ、小野にある標高340mの低山、石小山産の黒雲母花崗岩と判明した(かつては花崗岩の産出地であった)。この黒雲母花崗岩は、日本だけでなく朝鮮半島にも広く分布しており、特殊な岩ではない。そのため胡口靖夫氏は、松井淳風が何を根拠に朝鮮石であるとしたのかについて疑問を呈している。
銘文の解読について
墓碑銘文の解読に関しては、西生懐忠が先の小稿にて「石泐文字不ㇾ鮮」としており、発見当時から文字が読み取れないという問題があった。このことから同時期、国学者の伴信友『鬼室集斯墓碑考』や飯田武郷『日本書紀通訳』第五巻、水戸藩の小宮山昌秀『西州投化記』第一稿本などが様々に考証していたが、いずれも確定的ではなかった。
その後は忘れられていた墓碑だったが、遠藤宗義が許可を得て拓本をとり調査したことで、前述した「鬼室集斯墓」、「朱鳥三年戊子十一月八日殂」、「庶孫美成造」という銘文であることが判明した。だが、これらの銘文についてはいくつかの問題がある。
最初に「戊子」の記載形式について。墓碑にはここだけ一行ではなく、横に割り書きされている。だが、この紀年銘の形式の最古は、考古学会の『造像銘記』(1926年)によれば、京都府木津川市にある岩船寺の阿弥陀如来像の胎内にある墨書銘であり、それは946年(天慶九年)とのこと。したがって飛鳥時代にまでは、この形式は遡及できない。平安時代でもいくつかはみられるが、あまり多くはなく、一般的になるのは鎌倉時代の頃だという。そして、室町時代になるとまた少なくなる。
次に「殂」について。前述までは便宜上このように表記していたが、実際は字が欠けていて、「歹に冖」というところまでしか判読できない。そのため遠藤宗義は、死を意味する「殂」「歿」「殞」のいずれかとしつつも、どの文字かは分からないとしている。伴信友は「殂」としている。
しかし、これらの文字を当てはめても、ある問題が生じる。鬼室集斯の位階は「小錦下」と述べたが、その位階辺りの人物が死亡した際の用字は、古代の墓碑・墓誌銘を見ると「卒」が比較的多く、先の3字の内、「殂」「歿」は一例もない。かろうじて「殞亡」という用字はあるが、今回の「歹に冖」は墓碑の底面間際にあり、一字分の余白もないため適さないとの見方がある。
更に「庶孫美成造」について。銘文によれば、墓碑は鬼室集斯の庶孫が造ったとのこと。庶孫とは、正室以外の子(庶子)の孫という意味である。だが、古代の墓碑・墓誌銘で造立関係者の表記を参照すると、「孫何某」「継孫」「継孫何某」といった用字の表記はあるものの、確実とはいえないが「庶孫」の用例は見当たらないという。
伴信友は、鬼室集斯の嫡子庶子は既に死んだために、庶孫の美成が世嗣として墓を造ったと述べている。これについて胡口靖夫氏は、鬼室集斯の親族について、『日本書紀』などに書かれている、七世紀末~八世紀にかけて存在したとされる5名の鬼室氏の内、鬼室集信という人物が鬼室集斯の子として存在していたと憶測している。鬼室集信とは史料によれば、671年(天智十年)に大山下の冠位を授けられた人物なのだが、一説では鬼室福信・集斯の一族だという。これを踏まえて胡口靖夫氏は、鬼室集信が集斯の子として存命していたとみており、伴信友の「嫡子庶子の死亡説」に疑義を呈している。
造立年代に関する考察
仏塔ではない、供養塔・墓標塔としての石柱が盛んになるのは平安時代後期~鎌倉時代だという。近世中期以降には、現在墓地でよく見られるような造形が激増していく。
鬼室集斯墓碑のような八面体の石造物が現れ始めるのは、歴史学や考古学の研究者である、石田茂作・小野勝年・川勝政太郎・千々和美諸氏の調査によれば、1081年(永保元年)の玉虫八面石幢(熊本県上益城郡御船町)からではないかという。そして、鎌倉時代後期にその造形は確立する。
以上のことから、鬼室集斯墓碑とされる石造物は恐らく平安時代後期~鎌倉時代後期に造られた可能性が高いという。仏教に関する考古学などの研究者である石村喜英氏は、字体や碑形の問題から、奈良時代以降の偽作としている。彫刻史研究者の宇野茂樹氏も同様に、具体的な時代については言及していないものの、後世になって造られたものであろうと述べている。では、この墓碑は誰がどのような目的で造ったのか。
制作者と村の怪異伝説
造ったのは誰か
胡口靖夫氏は、平安時代後期~鎌倉時代後期に鬼室集斯の子孫たちが、先祖を顕彰することで武家社会の中で自らの家名をあげる目的で造ったと述べている。これに対して、歴史学者の岡田精司氏は、江戸時代中期以降に国学の素養と『日本書紀』を習読した人物が偽作したのではないかという。加えて、墓石に名を刻む風習が一般化するのは近世からだという。日野町教育委員会教育長などを務めた瀬川欣一氏は、発見者の西生懐忠が仁正寺藩幇助の元、偽作したとしている。
いずれにせよ、誰が造ったかについては未だはっきりとはしていない。そして何と、この石造物は鬼室集斯墓碑となる以前に、別の由緒があったのではないかとも考えられている。
始めは「人魚の墓」だった?
小野村の八角石柱を実見して描いた初見史料は、江戸時代中期の国学者である村井古厳の『古廟陵並植物等之図』である。そこには八角石柱の挿画とともに、「小野村ニ有 人魚墓」「人魚墓 文字有不見」などといったことが記されている。
江戸時代の画家である司馬江漢の旅日記『西遊旅譚』では、1788年(天明八年)8月12日条に、同じく挿図とともに、「西の方不動堂有。堂のかたハらに八方の墳あり。是人魚墳なり」とある。そしてもう一つの挿画には「人魚墳八方なり。文字あれども見えず」とある。ちなみに、司馬江漢が『西遊旅譚』から20数年後に挿画や文をリライトした『江漢西遊日記』では、「文字見へず(本文)」(挿画では文字ナシ)と記されている。なぜ文字が見えない(無い)と書き改めたのかは不明だが、『西遊旅譚』は旅行から帰った翌年の1790年(寛政二年)に原稿が脱稿されているため、記憶が真新しい。そこから時を経たことで、恐らく記憶違いになったと思われる。
ここからわかることは、西生懐忠の発見以前は鬼室集斯墓碑ではなく、何かしらの文字が彫られた「人魚の墓(墳)」として認識されていたということである。これは一体どういうことなのか。そこには、この町に残る怪異伝説が関係している。
滋賀の人魚伝説
日野町や近くの東近江市などには、人魚に纏わる伝説がいくつも残されている。最古の記録としては、『日本書紀』の619年(推古天皇二十七年)4月に、「蒲生河に物有り。其の形人の如し」とある。この蒲生河とは現在の佐久良川であるが、現地では「小姓が淵」とも呼ばれている。
伝説によれば、この地の観音堂に住む尼僧に仕える、小姓に化けた3兄妹の人魚がいたという。だがある日、小姓が淵で人魚の姿を村人に目撃されたことで、話はすぐに広まる。そしてある夜、小姓が淵にいた一体が村人に投網で捕らえられてしまう。もう一体は小野村へと逃れたが村人に捕獲され、その後葬られた。それが小野村の人魚塚のはじまりだという(最後の一体はたまたま蒲生へ布教で来ていた弘法大師によって高野山麓に納められたとか)。
なお、この人魚伝説には異説がいくつもある。小野村の川に住み着いた人魚が人々に災いを招いたため、聖徳太子に諭されて石となって守り神になったや、琵琶湖の主であった鯉と人間の女性のハーフ人魚が、醍醐天皇に取り憑いたために除霊され、弔いのために造られたなどと様々である。






小野にある二つの人魚塚
多いのは伝説だけではない。同じ小野地区内で、人魚塚とされるものが何と二つある。一つ目は先の鬼室集斯墓碑だが、もう一つは、碑から少し東へと進むと、不正形で四角柱の立石がポツンと出てくる。実はこちらこそが、村人が古くから人魚塚とみなしてきた方だという。



司馬江漢は『江漢西遊日記』の1788年(天明八年)8月12日条にて、小野村を訪れた際に村人から四角の塚が人魚塚であると案内を受けた。しかし、自身は六角と聞いたと伝え、それなら西の不動堂にあると教わる。そして、見つけたその石こそが人魚塚と判断した。
最初に絵図に残した村井古厳は、国学者である伴蒿蹊(近江八幡出身)から小野村の人魚塚の話を聞いていた。だが、伴蒿蹊はどの石造物が人魚塚であるかまでは特定していなかった。そのため村井古厳は、現地で見た二つの石柱の内、よりそれらしい方。つまり、八角石柱の方を人魚塚とした可能性があるという。司馬江漢も事前に村井古厳の資料を見ていたようで、それもあって村人の案内よりも自身の考えに固執したと思われる(なぜ六角と言ったのかは不明だが)。結果として、八角石柱の方が世間的には人魚塚として認知されていく。しかしそれも、西生懐忠の発見によって鬼室集斯墓碑と生まれ変わることとなる。
鬼室集斯の顕彰と神社の改名
墓碑を通じた鬼室集斯の再評価
西生懐忠の発見直後は、多くの儒学者や文人などが、遠方から鬼室集斯墓碑を訪ねてくるほどであった。だが、幕末~明治にかけての動乱の中で次第に忘れ去られていった。一方で小野では「鬼室さん」の愛称かつ学問の神様の墓碑として、ブームの後も大切にされていた。
そして再び、鬼室集斯墓碑が世に出ることとなる。きっかけを作ったのは遠藤宗義である。山形県酒田市出身で、歴史家・教育者でもあった遠藤宗義は、1901年に滋賀県蒲生郡長に転任した際に、多賀神社宮司の岡部大人から、かつて日本の文化面で功績を残した鬼室集斯を世に顕してほしいとの話を聞く。それを受けて墓碑を調査し、1903年に著した『鬼室集斯墳墓考』で鬼室集斯を顕彰したことで、また脚光を浴びることとなる。
「鬼室神社」への改名
本来は不動明王を祀っていた不動堂だが、明治に発令された神仏分離令によって、西宮神社と改名された。だが、注目を集めた影響もあって、鬼室集斯が西宮神社に合祀されることとなる。そして1950年には、祭神を鬼室集斯とする「鬼室神社」として更に改名されることとなった。
1990年5月16日には、日野町と韓国の恩山面が姉妹都市提携を調印する。これは、恩山面にある恩山別神堂に、鬼室福信が祀られていることからの縁である。現在も交流が盛んに行われているようで、鬼室神社は地元だけではなく国際的にも重要な役割を担う存在をなっている。


終わりに
怪異か偉人か、かつてない疑惑を抱える小さな国際的神社
日本へと渡った百済人たちは、遷都された近江国の地で律令国家としての発展だけでなく、水田開発といった面でも大きく貢献したという。そうした偉人たちの代表格である鬼室集斯を、地元が顕彰するのは当然の流れだろう。滋賀文化財保護協会は、真偽や捏造の有無はさておき、「この墓碑が存在すること」、「小野と鬼室集斯を結び付ける何かがかつてあった」という事実だけでも十分ではないかとの見解を示している。確かに、石造物自体は現存しており、それは恩山面と国際交流を成立させるほどの影響をもたらしている。だがそれ故に、歴史学の観点では更なる検証が必要でありながらも、ある種の不可侵領域が出来ていることには、一抹のもどかしさがなくはない。筆者が以前に撮影した『伝王仁墓』などと同様と言える(日韓友好の懸け橋という点でも)。
ちなみに1990年代に滋賀県野洲市大篠原で、日野町のものとは異なる鬼室集斯の墓石が田んぼの中で発見されたというが、これも真偽は不明のままである。


山間にひっそりと佇む、知る人ぞ知る神社でありながら、日本と朝鮮との関係に重要な意味合いを持つ鬼室神社。人魚伝説からの変遷と合わせて、その奇怪な成り立ちに思いを馳せながら訪れてみては如何だろうか。

主な参考資料
- 財団法人滋賀文化財保護協会“滋賀文化財だより”, 滋賀文化財だよりNo.204, 1994年12月20日.
- 胡口靖夫“近江朝と渡来人”, 雄山閣, 1996年10月18日.
- 日野観光協会“鬼室神社”, (アクセス日:2026年9月24日).
- 滋賀・びわ湖観光情報“鬼室神社”, (アクセス日:2026年9月24日).
- 日野町“青雲之志 町長コラム(6月)”, 2024年6月4日更新(アクセス日:2026年9月24日).
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