津田城跡 – 利権争いが生んだ空想の郷土史

『津田城跡』とは

戦国の乱世で消えた、枚方を代表する山城の跡地

『津田城跡』とは、大阪府枚方市の津田山にかつて存在したとされる山城である(現在は建造物等はない)。津田山の山頂部分は国見山と呼ばれており、そこにあったことから国見山城とも呼ばれている(津田山は山頂を含む周辺の山地一帯の総称である)。

『津田史』や『枚方史』などによると、津田城は1490年、河内国の津田にやってきた津田周防守正信によって築かれたとされている。そして三代目にあたる正明の頃には、当時畿内を支配していた三好長慶に仕えることによって、領主として北河内(現在の枚方市や寝屋川市などにあたる)の大部分を治めたという。しかし1575年、四代目の正時のとき、織田信長の攻撃を受け、津田城は焼け落ちたという。

だが、津田氏の存在や城主であったことを示すものが同時期(主に戦国期)の史料などには確認できないという。では一体、どこからそんな逸話が出てきたのか。

17世紀末以前には見当たらない津田氏

歴史学者の馬部隆弘氏によると、津田氏の存在を記した史料を探した結果、現れるのはいずれも17世紀末以降に書かれた史料で、それより前の時代のものには登場しないという。しかも史料のほとんどは、津田村の村人が編纂したものだった。なぜこのような偏った状況となっているのか。そこには、村間での津田山の支配権を巡る争いが関係していた。

創作された津田氏と津田城伝説

津田村と穂谷村との山論

17世紀末頃、国見山周辺の津田村と穂谷村との間では、津田山の支配権を巡って争われていた(これを山論という)。

津田山を中心とする地域(津田郷と呼ばれていた)の氏神は三之宮神社で、津田山もこの神社に帰属していた。その後、山間部の開発により、津田郷内にいくつもの集落が誕生したが(穂谷村もその一つ)、津田山の支配権は、本村である津田村に限定されていた。一方で、次々と集落ができたことで、三之宮神社自体は穂谷村に位置することとなった。

そこで穂谷村は、神社(つまり氏神)がある自村にも津田山の支配権があるとを主張した。これが山論の始まりだという。

津田村の正当性のために生み出された由緒

1695年、奉行所での裁判によって、津田村の支配に正当性があるとの判決が下る。この争いの渦中に、津田村の歴史をまとめた『三之宮旧記』などの史料が次々と作成されたのだが、そのなかで初めて、津田氏という存在が誕生した

また、裁判で津田村が提出した資料の中には、津田山の絵図があった。そこには津田氏による城が描かれており、周辺は「津田村山内」と記されていた。この視覚的にも訴求力のある資料は、裁判を優位に進めた要因のひとつになっただろう。そして、結果的に勝訴したことで、津田氏と津田城の名は世に広まったという。

これら一連の史料や絵図について馬部氏は、津田村の主張をより高めるために、自村民によって生み出されたものとみている。

穂谷村からの新たな由緒

穂谷村にとって、津田村から唐突に出てきた津田氏と津田城の存在を受け入れることはできなかった。そこで穂谷村も新たな主張を展開した。それは、穂谷にはかつて氷室(氷の貯蔵庫)が存在したという由緒である。

電気以前の製氷技術すらない時代、氷は貴重品であり、食品保存のためにも氷室は必要な施設だった。そのため氷室は朝廷や将軍など、一部の権力者が独占していた。そのような重要施設が穂谷村に作られたことは、つまり朝廷との関係性の深さを指す。このことから、穂谷村こそがこの地域の中心であったとの反論を始めた。そして、この反論の根拠にしたのが、三之宮神社にある古文書だという。

だがこの文書、実は『椿井文書』と呼ばれる後世に作られた偽文書のひとつであった。

『椿井文書』とは

近畿の広範囲にわたって分布している偽文書

『椿井文書』とは江戸時代後期、椿井政隆によって作成された数百点もの古文書群である。主に、地域の神社仏閣の縁起書、由緒書や境内図などが書かれている。『椿井文書』は近畿一円に分布しており、未だその全容は把握されていない。またそれらの中には、貴重な地域史料として現代でも活用されているものも多く、大きな影響を与えている。

しかし近年、その多くは椿井によって創作された「偽文書」であることが、馬部氏によって本格的に明らかとなった。

なお私は、過去にも椿井文書が影響した場所を撮影している。合わせてご覧頂きたい。

利権が絡んだ争いの場に現れる『椿井文書』

『椿井文書』の多くは、依頼者の求めに応じて作成されたものだという。そして、「求め」の背景にある代表例が、利権を巡る対立である。椿井政隆はこうした争いの場に度々登場し、依頼者にとって都合の良い由緒や系図などを創作していた。

三之宮神社に残る『椿井文書』

三之宮神社が所蔵する『氷室本郷穂谷来因之記』や『氷室郷惣社穂谷三之宮大明神年表録』などには、どれも穂谷村と氷室との関係性、実在性を裏付ける内容が記されているという。また『氷室郷惣社穂谷三之宮大明神年表録』には、南都興福寺の運営にあたった三鋼という僧侶が、氷室の出来た由来を承認する花押まで押されている。ところが、これらはいずれも、穂谷村が椿井に作成依頼した偽文書であった。こうした偽文書は一体、どのような手法で作成されたのか。

神社の縁起に加え、富農の系図や史跡・伝説なども創作し相互補完

椿井は由緒などの創作にあたっては、1つの文書で完結させるのではなく、それに関連する文書も作成し、登場人物や起きた事象などを巧く相関させ、各文書を相互補完させていた。

例として、まずは対象地域の神社の縁起を創作し(今回であれば三之宮神社)、それが受け入れられると、次に地元の富農の系図を作成した。『河州交野郡五ヶ郷惣侍中連名帳』という文書には、近世の頃に津田山周辺にいた富農が網羅して掲載されているという。これについて馬部氏は以下の見解を述べている。

身分上昇を図る富農にとって、かつては有力な武士だったと語る系図は、喉から手が出るほど欲しいものであったに違いない。

馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』 (中央公論新社、2020年)

加えて、その文書の信憑性を高める工夫として、『古事記』や『日本書紀』などの史書にある固有名詞を転用し、自身の文書に登場する神社などに命名していた。また、対象地域の史跡の情報と、そこにまつわるありえそうな逸話なども盛り込むことで(津田城を巡って津田村と穂谷村の土豪が争ったなど)、より受け入れられやすくなる工夫をしていた。このようにして、うまく創り上げた由緒は信用され、地域に定着していった。 

ちなみに穂谷村の氷室由緒について、平安時代に編纂された『日本紀略』という歴史書には、831年に河内と山城に三か所ずつ氷室が増設されたとあるが、具体的な場所までは記されていないという。馬部氏は、穂谷村はこのあやふやな点に目を付けたとみている。

本当に城だったのか

山城としては特異な構造

津田城の不思議な点はそれだけではない。城であった場合、遺構から伺える構造に違和感があるという。

谷筋の頂上に、曲輪という人工的な削平地がある。現在は中央が歩道として整備されているため分断されているが、平坦面の高さが同一なことから、かつては一つの区画で、ここに建物が作られていたという。

だが通常、本丸は山頂に築かれるはずである。これでは、谷の最奥部に位置する構造のため、頂上を陣取られると一方的な攻撃にさらされてしまう。この点から、ここは城ではなく、別の可能性を推察ができる。

山岳寺院、またはその跡地を利用した駐屯地か

建築史家の平井聖氏は、津田城の構造について、国見山と城下を含めた全体の防御体制のため、城自体の守りが手薄になったとみている。

一方馬部氏は、歴史的に見てこの辺りが山岳修験の場であったことから、山岳寺院があったのではないかと推察している。また1564年、畿内を治めていた三好長慶の死後に配下や周辺の武将との対立が起きた際、各軍の進出の足掛かりに津田の地域が利用され、津田城もその渦中で利用された形跡が文献にあるという。このことから、寺院跡が駐屯地になったのではないかともみている。

津田正信の墓について

『五畿内志』を見て、子孫と称する人物が訪ねてくる

1735年から刊行が始まった『五畿内志』。これは、幕府全面協力のもと編纂された、当時としては高い正確性を誇った地誌である。そこに、津田城や氷室の逸話も掲載されている。それを目にしたのか、1781年頃に津田一族の子孫と称する紀州津田氏が、先祖の墓を探しに津田村を訪れる。

依頼を受けた津田村の領主である久貝氏は、村に津田氏の墓の捜索を命じた。しかし津田村にとって、津田氏の由緒は山論のためにでっち上げた話であるため、そもそも実在しない。また、このとき既に穂谷村との山論に勝訴していたため、もう津田氏との関係性を強調する必要性もない。そのため、墓はないと回答するも、久貝氏から何度も捜索命令が来る。そこで津田村は津田氏の墓を作り、改めて「ある」と報告した。

ひっそりと建つ津田氏の石碑

当時作られた津田氏の墓は、自然石を10数個積み上げたものだったようだが、高速道路の拡張などの関係で取り壊された。現在は、新たに建立された石碑が住宅街の道路脇にある。

終わりに

偽の郷土史から再考する、情報の捉え方

引くに引けぬまま、双方の村が語り継いできた津田城と氷室の偽由緒。穂谷村は敗訴後も、三之宮神社の雨乞い神事では「氷室」という能を演じるなどして挽回を試みていた。また時を経て、氷室小学校校歌の歌詞中にも登場するなど、町の歴史としても定着している。今も生き続ける江戸時代のフェイクニュースの影響力は、まるで、ポストトゥルースともいわれる現代を映し出す鏡のようである。

公的機関やマスメディアなどによる、世論や印象操作といった政治的・組織的な問題が度々話題となる。情報が錯綜し、日々戸惑う現代。津田山と津田城跡は歴史を感じるだけではない、メディアとの距離感や捉え方、自身のリテラシー能力などを再考できる、社会派ハイキングが楽しめる場所なのかもしれない。


主な参考資料

  1. 馬部隆弘“由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に”, 勉誠出版, 2019年.
  2. 馬部隆弘“椿井文書―日本最大級の偽文書”, 中央公論新社, 2020年.
  3. Yahooニュース“嘘でつくられた歴史で町おこし 200年前のフェイク「椿井文書」に困惑する人たち”,2021年2月5日.

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